国家論の復習と「国家論」以前の疑念

加藤哲郎「グローバリゼーションと国民国家――国家論の側から」*1


http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20070118/p1にて知る。
「国家論」の概観としては取り敢えず有益ではある。加藤氏の見立てによれば、グローバル化状況における理論的な対抗軸は、「グローバル・ガバナンス」論と「帝国」=「マルチチュード」論ということになる*2
ところで、私が長い間ごにょごにょと考え続けてきたのは、社会にせよ国家にせよ直観不可能なものであるのに、社会や国家が存在するということは私にとって自明であり、それらが存在するということを前提として、日々私は振る舞っているということだ。社会学でも政治学でも、論文とかを読む度に、どうしてみんなこの問題をこうも易々とクリアしちゃっているんだよと思っていた。勿論、社会にせよ国家にせよ、その存在を取り敢えず自明なものとしなければ、社会や国家について語ることはできないし、私自身だって社会や国家について語るときはそうしているわけだ。にも拘わらず、上に言った問題が消えることはない。社会とか国家について語る度に、私という主観性に定位して基礎付けられていないことを語っているという違和感を自分自身に対して感じてしまう。そういう違和感の中で出会ったのが、ベネディクト・アンダーソンだったわけだ。アンダーソンを最初に読んだときに感じたのは、自分と同じ疑念に向き合っている学者がいるんだということである。私にとって、アンダーソンの重要さは「国民国家」論にとどまらない*3。彼は私たちが直観することもできない*4諸々の「共同体」の存在を自明視しつつ、それらと関わって日々振る舞っているという(或る意味では)自明なことを明言してしまったのだ*5。加藤氏のテクストからは全く外れているのだけれど、読んでいて、上のような長年の疑念を想い出し、違和感を感じたのである。


現代国家論の第二の重要な問題領域は、国家stateと国民・民族nationのギャップ・ずれである。 ヨーロッパの近代国家は、もともと中世の数百に分散した領邦権力が絶対主義の中央集権化をくぐって30ほどに整理されて生まれた。その理念が国民国家で、国家は「過去における共通の栄光、現在における共通の利益、未来における共通の使命」(H・コーン)をもつネイションを基礎につくられるとされた。言語や文化を共有する民族が国民の一体感を保証し、その範域は、古代帝国に比すれば小さく、中世領邦国家に比すれば大きい、人口数千万人程度の中規模な政治的統合を可能にすると観念された。だが、第二次世界大戦後でもせいぜい50程度にすぎなかった近代国家が、民族自決の理念で旧植民地が独立し、アジア、アフリカで増殖して今日200近い政治単位となり、地球の国民国家的領土分割が、最終的に完成された。その過程で、さまざまな人種・民族で構成されるモザイク国家が多数派になり、そもそもネイションとはステイトのつくりだしたフィクションではなかったかという疑問がおこった。 一方で国家形成が先行して国民形成に苦しむ新興国家の現実と、他方で民族学・人類学のエスニシティ研究の発展によって、関に引いたネイションとは「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」というB・アンダーソンの規定が、共通了解となっていった。

国家間の国際政治ばかりではなく、地球市民による地球政治が必要になった。グローバリゼーションが進めば進むほど、国家統治にたずさわる政府(ガバメント)のみならず、国際組織や地域統合NGO/NPO、企業、自治体・地域社会、市民が重合するグローバル・ガバナンス(地球統治)が問題になる。地域住民の分権・自治・直接参加の要求が高まり、ローカルな自立・分離の動きによっても、国家の絶対的・主権的地位はおびやかされる。国家の基礎には社会がある。社会がグローバルに広がり、ローカルな政治が活性化し、企業や市民のネットワークが地球をおおいつくした段階で、かつては絶対的と思われた政治単位・帰属対象としての国民国家の意味と限界が、改めて問い直されているのである。「国家の来歴」や「品格」が語られるのも、こうした国民国家のゆらぎへの懼れと不安が強まっているからだろう。

資本のグローバリズムに集権的国家権力で対峙し、プロレタリア国際主義で対抗する論理よりも、むしろローカルな地域での分権・自治から共同体的関係を復興しようとする動きも現れる。政治に即して言えば、古代ギリシャのミクロポリス、近代のメトロポリス・メガポリスに対して、グローバルな情報空間となったサイバーポリスまで出現したもとでは、フェイス・トゥ・フェイスの家族的・村落的コミュニティの方に、ナショナルな国家よりも確かな実在感が生まれる。かくして客観的・構造的な「変革主体」の想定そのものがリアリティを喪い、世界市場での「グローカル企業」や「一村一品運動」が模索され、近代主義以上に生産力主義的なマルクス風「溢れるばかりの富と自由の国=共産主義」のユートピアに代わって、エコロジカルで自然主義的な帰郷運動が始まる。ノマドディアスポラへの注目、マイノリティや女性、最下層サバルタンの再定義、脱オリエンタリズム多文化主義論やアジア的価値の見直しが、「文明の衝突」への対抗軸になる。
と加藤氏が書くとき、それが大まかにいって正しいということはわかる*6。しかし、それと同時に、私*7はどこにいるの? と呟きたくもなるのだ。

*1:http://homepage3.nifty.com/katote/state06.html

*2:特に、7節の「グローバル・ガバナンスと<帝国>論の方へ」を参照。

*3:国民国家」だけが「想像の共同体」ではない。階級だってジェンダーだって。

*4:アンダーソンのいう「想像の」というのを心理主義的に解することはできないだろう。それは直観不可能性に関わるものであり、また古くからの哲学的用語でいえば、可視性と可知性の対立に関わるものだろう。

*5:勿論、そのようなことをそれ以前に指摘した人として、クロード・レヴィ=ストロースを、さらにはアルフレート・シュッツを挙げることができるだろう。

*6:但し、「フェイス・トゥ・フェイスの家族的・村落的コミュニティの方に、ナショナルな国家よりも確かな実在感が生まれる」ということには疑問がある。

*7:言うまでもないが、ここでいう「私」はこれを現に書いている筆者ではなく、個々の意識的存在一般の謂いである。