『魔法の手の子どもたち』

 野辺明子『魔法の手の子どもたち 「先天異常」を生きる』太郎次郎社、1993

魔法の手の子どもたち―「先天異常」を生きる

魔法の手の子どもたち―「先天異常」を生きる


久しく前に買って、そのまま積んでおいた本。
1972年1月に誕生した著者の長女・麻衣子さんは「右手の指が小さな親指を除いて、ない」(p.49)「先天異常」だった。 第1章「麻衣子の誕生から思春期まで」は麻衣子さんの成長を辿ったバイオグラフィを中心とする。第2章「魔法の手の子どもたち」は3人の「先天異常」の人のバイオグラフィ。第3章「「障害児」は生みたくない」は、「障害児」に対する「幼児虐待」問題の考察(pp.190-208)と「障害」の原因究明を巡る「障害児」の親と「障害者」との軋轢(pp.209-216)或いはそれを巡る行政の思惑(pp.216-219)、そしてエコロジー思想(運動)に潜む「優生思想」に対する告発(pp.219-227)。
「障害者」の生の肯定−−家族・親族による肯定、本人による肯定及び社会による肯定の3つの層を持つ。
著者が「先天性四肢障害児父母の会」を1975年に始めたのは、『毎日新聞』の「女の気持ち」欄への投稿がきっかけだった(p.70ff.);


それは、二月六日の朝刊に、「先天異常の子を持って」という見出しで活字になった。玄関先に投げこまれた朝刊を広げた私の目に、その見出しはひどく他人ごとのように映った。夫にも投書したことさえ言っていなかったから、朝食のときにもなんとなく切りだせずに、一人ドキドキしていた。あのドキドキは、その日を境に私の生活が大きく変わっていくかも知れないことへの予感だったろうか。
お昼ごろ、最初の電話がかかってきた。つづいて、二本、三本。みんな、指のない小さな子どもをかかえて悩んだり、苦しんだりしている母親たちだった。電話の向こうで泣いている。はじめて、子どものこと、心おきなくしゃべれた……と。
私は住所や名まえをお聞きし、後日、お手紙を書いた。そうやって、はじめての仲間たちの名簿ができていった。その後、先天異常の疫学の問題を特集したNHKテレビのドキュメンタリー番組『あすへの記録』に出たり、『婦人公論』に手記を応募したりしたこともあって、半年後の一九七五年の夏には、五十〜六十家族と連絡がとれるようになり、一度、みんなで会いましょうと、父母の会発足へと動いていったのだった。そうして、「先天性四肢障害児父母の会」の運動が始まった(p.73)。
インターネット以前では、新聞の投書欄が集合体・運動体形成の契機として機能したこともあったのだ。