現象学・社会科学会その他


承前*1

12月4日、そもそもは現象学・社会科学会、午前から参加して、矢田部圭介氏の〈司会の技〉を拝見しつつ、徳久美生子さんの報告を拝聴しようと思っていたのだが、幾つかの事情で断念。その1つは、半年ぶりに実家に帰ったら、いつの間にか目覚まし時計の電池が切れていたということである。なので、午後のシンポジウム「健康」に参加することにした。早稲田の文学部キャンパスに到着したら、今まさに始まろうとしているところ。
シンポジウムのイントロダクションで、司会の水谷雅彦氏がみのもんたを枕に振っていたけど、今や健康言説について語る際にはみのもんたに言及しておくのは定番となっているのだろうか。それはともかくとして、水谷氏のイントロダクションの中で興味深かったのは、そもそも近代というのは継続的な「健康ブーム」であったということ。近代における〈義務としての健康〉は常に軍事ということと関わっていたが、特に近年〈義務としての健康〉は、「生活習慣病」という概念の登場を契機として、また遺伝子解析技術の爆発的進展とも絡んで、新たな展開を見せているということ。
ベンサムを研究し、功利主義自由主義にコミットするという児玉聡氏の報告は、主に米国における「公衆衛生の倫理学(Public Health Ethics=PHE)」の勃興を巡るもの。PHE勃興の背景には、1960年代の「感染症から慢性疾患へ」という疾病構造の変動、最近のSARSのような新たな「感染病」や「バイオテロ」の脅威がある。「PHEの主要な問い」は「公衆衛生的介入はどこまで正当化されるか」ということ。「公衆衛生」の名の下での介入は従来の個人主義的・自由主義的倫理では正当化され難い。批判者による「公衆衛生的介入」へのレイベリング−−legal moralism、healthism、hard paternalism。「公衆衛生的介入」を共和主義(コミュニタリアニズム)から正当化しようとする試み−−トクヴィルを結節点としたDan E. Beauchamp、R. Putnam、Ichiro Kawachi社会疫学)。興味深かったが、時間がなかったせいか、最後は唐突に〈地域の力〉とか〈町づくり〉の話で終わってしまったのが残念。私見としては、共和主義といっても、パトナムの影響を受けた議論というのは、集団レヴェルにおける功利主義に回収されてしまうのではないか。civic vitueを持った諸個人による自発的協力によるコミュニティのcoherenceの維持の効果としてのコミュニティの効率性の増大。
柄本三代子氏の報告は、「特定保健用食品」の話を中心とする。内容としては多岐に亘るのだが、話の骨幹の一つは現代における「科学」とビジネスとの共犯関係、或いは「リスク」と「商機」との共犯関係。また、広告メッセージにおける「的確な誤読」の意味について(例えば、「燃焼系」といった場合、何が燃えるのか)。さらに、「健康ブーム」は私たちに「自己責任、セルフ・モニタリングの徹底」を呼びかけが、その状況認識の基本は「現状否定と未来への配慮」である。つまり、健康言説においてはお気楽な保守主義というのは許されないということになる。あと、興味深かったのは、「科学的根拠」を伴った健康言説がつくり出すもの、それは「健康人」でも「病人」でもなくて、夥しい数の「半健康人」であるということ。
宮地尚子氏の報告は、「親密性」の病理としてのDVを中心とする。DVが医療問題化・社会問題化せずに隠蔽されてきたこと、またDVそのものがが生起することは、外からは覆い隠された「親密性」が関わっている。DVと「健康」概念との関係については、DVの「加害者」の「健康」性が問われているが、これまでは「公的領域で問題を起こさず、そこでの責任を果たせば「健康」「正常」とみなされてきた」という。興味深かったのは、「私的領域の中の、親密的領域と個的領域の区別」ということ。DV被害者はほぼ共通して、「個的領域」が加害者によって剥奪されている、或いはそもそも欠如している。
ディスカッションでの興味深い論点としては、木村正人氏が指摘した、最近の「公衆衛生」を巡る議論において、securityという言葉が従来的な社会保障から安全保障へとずらされてきているのではないかということ。また、これは丸山徳次氏が指摘した、「健康ブーム」の隠された動機として医療費問題があり、それに触れずに「公衆衛生」とか健康を云々するのは、新自由主義的な政策動向と共犯関係に陥ってしまうのではないかということ。さらに、砂川裕一氏と那須壽氏によって口火が切られたのだが、「健康」の定義を巡る問題。「健康」「不健康」「病気」「正常」「異常」を巡る問題。これに関わって、水谷雅彦氏がそもそもは「科学」ではないのに「科学」になりたがった医学、その科学化への欲望の帰結としての「健康の数値化」という発言をした。この問題に関しては、不肖私も発言したのだが、これについては別に整理したい。
ともかく、久しぶりのライヴでのアカデミックな討論であった。張江洋直先輩、那須先生、奥田和彦先生、木村正人氏、芦川晋氏、徳久さんには取り敢えずご挨拶することができた。ただ、夕方から用事があったので、この学会恒例の〈裏の委員会〉には参加できず。東西線と山手線を乗り継いで、新宿へ。
夜は妻の仕事上の師匠であるIさんとルミネの「ろいす」で会食。食事は美味しかったが、「日本酒&ジンジャー」という飲み物はちょっとちょっとである。

買った本;


 片桐雅隆『認知社会学の構想 カテゴリー・自己・社会』世界思想社、2006

認知社会学の構想―カテゴリー・自己・社会

認知社会学の構想―カテゴリー・自己・社会

 齋藤慶典『デリダ なぜ「脱−構築」は正義なのか』日本放送出版協会、2006

デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか (シリーズ・哲学のエッセンス)