Drink a cup of coffee and smoke a cigarette!

遠い場所で物を言うのではなくて、事が起こっているその場所で誰でもできることといえば、


 Drink a cup of coffee and smoke a cigarette!


ということなのではないかと思う。どんな場合でも、他人から珈琲と煙草を差し出されれば、取り敢えず自分の存在が肯定されていることを実感することができる。どなたかのblogのタイトルでいえば「お茶ドゾー」*1ということになるのだが、実際に珈琲と煙草を差し出すこと、そして火を点けること、そこからしか始まらないのだと思う。
たしかに、なんばさんのいうように、「一般的に言っても、処罰というのは加害に対する抑止力だったり、応報感情を満たすというだけではなく、「社会は加害者を許さない、ゆえに加害者になることは合理的な選択にはなりにくく、それゆえ我々は日常生活の上で被害者になることを(それほど)おそれなくても生きてゆける」という予期を形成するために必要なのだと思う」*2。しかし、「シカトや悪口が特に深刻な問題になるのは、特定の「いじめっこ」がそれをするというのではなく、クラス全員、学年全体、といったレベルでそれをやられる場合だ」という場合はどうなのだろうか。この場合、「処罰」というのはどのようになるのだろうか。想像するに、「処罰」できたとしても、それは形式的で実効性のないものになるのだろうと思う。
「コミュニケーションのトラブル」*3といった中には次のようなことが含まれている。「被害者」が自分の言いたいことを組織できない、自分の言い分を見出せない、そのために無視をするという応答もキレるという応答もできないために、事態が膠着してしまう。何らかの仕方で応答できれば、事態は別の展開をするかも知れない。しかし、それは「自己肯定感を失った子供には難しい」というわけだ。「自己肯定感」の恢復には珈琲と煙草しかないだろう。