露出としての告白?

「【追記あり】元露出狂が綴る防犯対策」http://anond.hatelabo.jp/20140103224112


「数年前に下半身を見せて逮捕され」たという。そういう「露出狂」が「露出狂」の被害者になる可能性がある女性に「防犯対策」を語るというスタイルになっている。これを紹介しているfonnt-daさんは、


この加害者は匿名で、被害者または被害者になりやすい女性に対して、防犯対策と称して「自衛」の方法を綴っています。この記事が「有用だ」「参考になる」と思う人がいるかもしれませんが、私は「加害者が、被害者に自衛を求める」という発想にある種の奇妙さを感じました。その奇妙さは、性暴力加害者に(直接・間接的に)接したり、調査報告を読んだりするたびに感じるものと同じです。

 加害者が「自分がどうすれば加害をやめられるのか」ではなく、「あなたがこうすれば、自分は加害をせずにすむ」と述べること。その背景には、「相手に隙があったから、自分が加害を行った」「悪いのは被害者である」という自己正当化の論理があるように思います。
(「性暴力加害者の心理」http://d.hatena.ne.jp/font-da/20140104/1388817931

と批判している。私はこの増田に「自己正当化の論理」を見出したわけではないけれど、何かしらの違和感を抱いたことも事実だ。
増田曰く、

Q 露出の何がいいの?

A 相手の目を陵辱することです。自分の汚い物がかわいいあの子の目に焼き付く事を想像して興奮しました。また、かわいい処女の子が人生で初めて見る勃起した物が自分の物だと思うだけで興奮しました。露出狂は自分の恥ずかしい姿を見られたいMと、恥ずかしい姿を人に見せて嫌がらせをしたいSがいますが、私はSでした。

ここで、増田の「私」は二重化している。つまり「汚い物」を持ち、その「恥ずかしい姿を人に見せて」いる「私」と、そうした「私」を観察し「自分の汚い物がかわいいあの子の目に焼き付く事を想像して興奮」している「私」。この匿名ダイアリーにも同じ構図がある。下半身露出をして逮捕された「私」とそれを告白する「私」。或いは、「恥ずかしい姿を人に」読ませている「私」と読まされた読者の様々な反応を「想像して興奮」している「私」。増田は

8 実際に股間を見せられてしまったら無視を決め込め

警戒をしても見せられる事はあります。そういう時はただただ前を向いて歩いて下さい。「きもい」とか「ちいさい」とか「やめて」とか全て僕たちにはご褒美です。無視が一番嫌です。

とも言っている。「 無視が一番嫌です」とは凄ぇ率直だが、もしかしたらfont-daさんにしても私にしても、増田の悦楽に協力してしまったのかも知れない。
ただ、増田の〈告白〉には文学的な意味はあるだろう。この「心理」は私小説*1を書かんとする小説家にも幾分かは共有されている筈なのだ。