村山敏勝さん

http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20061016/p1にて知る。
また、これからもう更新されることはないのであろう blog→ http://d.hatena.ne.jp/toshim/、特にhttp://d.hatena.ne.jp/toshim/20061012


村山さんと直接言葉を交わしたのは、CSFの例会後の飲み会の時に1回だけ。そのときは、たしかピーター・バーガーと米国の保守主義について会話したような記憶がある。また、今年の6月には、私が村山さんのblogに突っ込みを入れて、それに対して、リプライのコメントをいただいたことがあった。最近はblogのチェックをしていなかったのだが、誰だってこの急速な事態の展開は信じられないだろう。
最近、何故か井筒俊彦先生が気になっていた。村山さんも9月29日に井筒先生の本を挙げている*1。ユンク派ではないので、シンクロニシティなんていうつもりはないけれど。そこにて、


詩やアートについて語るとき、あるいは愛一般について語るとき、どこかで神秘主義にならないことは難しい。そうでないように見えるのは、芸術経験という神秘的経験を語る語法が長年のあいだ磨かれてきて、スーフィズムのような狭義の神秘主義を連想させない独自性がすでに確立されているからにすぎない。ラカンのやったことは、フロイトが懸命に避けた神秘化を、ごくあっさりと理論化したことなのだとすら言える。それでも批評家は、自分が神秘主義者であることはなかなか認めたがらないし、なんとか神秘主義を回避して語ろうとするものだ。コプチェク自身は、「別の世界」ではなくて、あくまで現実世界に属す「イマージュ」(対象a)を強調する自分の姿勢は、彼岸に向かっていないという意味で超越的でないと言うかもしれない。ただしイスラム神秘主義哲学においては、まさにそうして現実世界に神の顕現を見ることが「神秘体験」なわけだが。
という言葉を見つける。とはいっても、「最近はblogのチェックをしていなかった」ので、この悲しい情報がなければ、この優れた洞察を知ることもなかったということになる。