「かわいそう」を超えて?

承前*1

「かわいそう」というのは、山形氏が述べているような、或る個人が社会福祉とかにコミットする動機としては成り立つかも知れないが、社会福祉社会保障という制度は基礎付けられないし、〈制度〉的な振る舞いとしての社会福祉社会保障の実践の動機付きとしても成り立たないだろう*2社会福祉社会保障というのは、相手を「かわいそう」と思うかどうかということではなく、その対象がwell-beingを欠如している状態にある、或いは〈困っている〉状態にあるということにおいて発動される実践だからだ。実際の話、「かわいそう」どころか〈憎たらしい〉と思う、或いは〈ぶっ殺してやりたい〉と思うような障碍者や老人は掃いて捨てるほどいるだろう。だからといって、そういう人たちを放置していいというわけにはいかない。多分、こんなことが問題になるのは、端的に言って、世俗化の帰結だろう。村上陽一郎氏が述べているように、そもそもprofessionとは神の呼びかけに対する受諾の宣誓であった。しかし、世俗化とともに、professionはたんなる専門職に変容し、神との関係の代わりに、クライアントとの関係が前面化する*3
稲葉振一郎氏は、


>>立岩の根本にあるのは、
>>
>>「一人前に生きていけない/生きているとみなされないのは嫌だ」と
>>障害当事者が言うと「図々しい」とみなされるのは、おかしくね?
>>
>>ということ(だけ)だと思われ。
>>私はきわめてまっとうな論だと思いますが。
これもその通りだと思う。が、なぜそのような「まっとうな論」が当たり前のこととして実現されないのか? 

これも考えてみないとならん。まだよく答えがわからんのですが。

一つの切り口としては、搾取論批判の応用問題で「労働者が貧しいのは資本家に搾取されているからではない」のと同様に、「障害者が障害を負っているのは健常者のせいではない」わけよね。だから、仮に労働者が再分配の請求権を持っているとしても(山形の批判はわかりますがとりあえずやや安易に「権利」の語を使いますよ)、それは資本家の搾取に対する損害賠償請求権と擬制できるようなものではない。
同様に、障害者の救済請求権の根拠もまた、健常者による差別とか何かに対する補償の請求権には(少なくともその大半は)求められない。

ぼくにはドゥウォーキン流の仮説的保険理論とか、あるいはもっとストレートにコミュニニタリアンチックな、それこそ社会的連帯の原理としてしかそれは根拠づけられないと思う。だとしたらそういう請求権は他の様々な権利や義務とのかねあいにおいてしかあり得ないんだけど、そういう「かねあい」ってどんなの?
http://d.hatena.ne.jp/dojin/comment?date=20060904#c

と書いている。
多分そうだと思うのだが、稲葉氏の『「資本」論』(ちくま新書)から、「福祉国家社会権」について述べられている箇所を抜き書きしてみる;

自然に考えれば福祉国家社会権とは、古典的な自由権や財産権のように、その主体の側に実体的に存在し、成立している権利の保証――国家はそれを尊重し介入しない――ではなく、国家に対して何ごとかを要求することができる、という約束です。つまり「権利」とは言いながら、その実態としては恩恵に近く、自由権や財産権――ロック的に言えばまさに「自然権」に直接由来する権利とは一見非常に対照的です。
しかし本書の「労働力=人的資本」論を考慮に入れるならば、いま少し異なった考え方が可能になることは言うまでもありません。すなわち、福祉国家社会権とは、労働力=人的資本という無産者たちの財産が、私的所有と市場経済の秩序の下できちんと機能しうるためのセーフティーネットであり、決して単なる「恩恵」などではないのだ、と(p.240)。

語の普通の意味での無産者を、それでもなおあえて労働力=人的資本の所有者と見なすということは、身体ひとつで無一文、素寒貧の人でさえも、「剥き出しの生」とは見なさず、そう扱わないということです。人に対して権力的に介入するにせよ、そうした介入はまずはその財産に対して、財産を媒介として行い、直接に「剥き出しの生」、内面、プライバシーに踏み込むことは避ける、ということです。
付言するならばこの理屈は、原則的には、普通の意味での雇用労働をなし得ない、重度の障害者である無産者についても(それが「擬制」であることを開き直って認めるならばなおのこと)あてはまります。そもそも、特定の傷害をもった個人が、何であれ労働をなしえないかどうかは、生態学的、産業技術的、そして社会関係的な環境、諸条件によって左右されることです。周囲のサポートが、あるいは一定のテクノロジーがあるかないか、によって働けたり、働けなかったりするだけのことです。仮に現状では働けなかったとしても、条件さえ整えば働きうる身体として、その人の心身を労働力=人的資本と擬制することに対して、プラクティカルにはともかく、根本的で原理的な困難があるとは言えません(pp.251-252)。
そうすると、「根本的で原理的な」レヴェルから一歩踏み出すのは、「条件さえ整えば働きうる身体」ということを想像する想像力が一般的に共有されているかどうかに関わっているかどうかに左右されることになる。
また、稲葉氏はアレントを援用しているのだが(pp.250-251)、たしかにアレントは〈福祉国家〉を私たちが「剥き出しの生」として市場経済に曝されるのを回避するための措置として評価している。ここで困難があるとすれば、アレントが「財産(property)」と「富(wealth)」を厳格に区別していることだろう。「資本」というのは(アレント流に言えば)「富」の方に属するものだろう。「財産」は固有であること(proper)に繋がり、固有であることの維持は、複数性の維持、すなわち世界の擁護に繋がるという回路はある。繰り返せば、どのような生であっても、それを「剥き出しの生」、のっぺらぼうなzoeとしてではなく、固有なbiosとして扱うということは、そのようなbiosが展開する場としての世界の存立を擁護することになる。但し、そこから具体的な社会保障社会福祉制度に論を到達させるのは、また一筋縄ではいかない。
かなりの勉強が必要であるということで、雑念を書き出してみた。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060909/1157778917

*2:何度か言及した「仁」は憐憫とは厳密に区別されるべきものだが、これも「かわいそう」と同じ問題を抱えているといえるだろう。

*3:但し、非基督教圏では、そもそも神との契約としてのprofessionという概念がなかったわけだから、世俗化説を過大評価するのもまた問題である。