キューブリック/ヴィスコンティ

「うさこ」さんの『バリー・リンドン』評*1。「12歳の子どもの目に映った古典世界」という一言で決まり。がつん。
それよりも注目すべきは、キューブリックヴィスコンティの比較になっていることか;


成功しているときのヴィスコンティの映像は、特異な世界をつくりだす。一つの動作にこめられた記号の複雑な重層性、歴史的な美しさの堆積と変容の気配、その気配に対する鬱屈と、鋭い皮肉と嫌悪、しかも深い愛着をこめた洗練。腐敗寸前の官能と豊穣さ、髪を解いた寝室の女性の脂粉の匂いまで漂ってきそうな画面は、あの作家だけのものだろう。様式のなかでそだったひとが、それを崩すところから始めているという点で、出発点から圧倒的優位にある。ようするにあれはマドレーヌからはじまる映像なのだ。

ふとかんがえ出すと、おもしろい逆説がいくつもみてとれる。たとえばキューブリックのキャスティングは「正しい」。BBCのドラマとおなじように、貴族の役であれば、できるだけ貴族にみえそうな人を選んでいる。ところがヴィスコンティのキャスティングは、しばしば「正しくない」。そこでは記号が発酵し、ねじまげられ、意図的に浸潤され、毒され、腐り始めている。

基本的にヴィスコンティはなりあがりの俳優をえらぶ。アラン・ドロンはとうてい男爵家の青年にはみえないし、ヘルムート・バーガーが演じるのは、もはや健全な王の機能をはたさないまま朽ちていく末期の王である。近代の容赦のない効率性が世界をおおいつくそうとしていた時期に、狂気という贅沢に惑溺していった人物をえがこうとする行為そのものをふくめて、そこには自己批評をこえた嗜虐趣味が漂う。ヴィスコンティ自身がそうであるような、なにかが終わろうとする末世の支配層の目からみた新鮮さ、すなわちいかがわしさや禁忌の匂いを漂わせた虚偽の美、逸脱、ある飢えとにがさを透かし見せることが、役者えらびをはじめ万事の好みになっていたように思えてならない。ようは残酷なのだ。彼が偏愛するのはジゴロであり、下司である。下降指向などというなまやさしいものではない。体に悪い腐敗寸前の美味を口にする自虐的な愉しみが追求されるのは、弱いくせに誇りが高いからだ。裏切り者をえらぶひとは、どこかで裏切られたくてえらぶ。レオナルドは、相手がどういう人間か、百も承知でサライを愛したのだろう。

バリー・リンドン』、公開された時には観なかった。というよりも、興行的に超不評で1週間かそこらで終わってしまったように思う。観たのはその数年後、築地の松竹本社のビルにあった名画座にて。
この映画を観て、赤と青の色鉛筆の見方が変わったということは記しておこう。この映画を観たときには未だChieftainsのことは知らなかった。