今更ながら「子猫殺し」

坂東眞砂子さんの「子猫殺し」というエッセイを巡って、めらめらと燃えているようである。それに便乗して、少し書いてみる。
私がこの件を知ったのは、http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2006/08/post_3aec.htmlでであり、全文が引用されている。また、http://stakasaki.at.webry.info/200608/article_14.htmlにも全文が引用され、関連記事へのリンクが張られている。
読んでみて、たしかに坂東眞砂子さんの言っていることには共感はできないが、だからといって、坂東さんの人格を攻撃するとか否定するとかという気にはならなかった。まあ、「きっこ」さんの場合は、そもそも「あたしは、この人の小説は、2〜3冊しか読んだことがないんだけど、つまんないとか、気持ち悪いとかいう以前に、なんか、異常な人格が見え隠れしてて、そういった意味で、あたし的には拒絶反応を起こしてた」ということなので、そこのところを最初から割り引いて考えるべきなのだろう。言っておきたいのは、坂東さんは自らの手を汚すというリスクを引き受けているということだ。始末に負えなくなった犬を保健所に連れていって殺してもらうなどという輩*1よりもずっと倫理的であろう。
私が坂東さんの理屈で引っかかったのは、先ずは自らのやったことへの釈明として、「社会に対する責任」を持ち出していることだ。このロジックを例えば人間に拡張したらどうなるのか。〈貧乏人の子沢山〉という言葉があるけれど、このロジックで行けば、〈貧乏人〉を初めとして、社会の迷惑になると常識的に観念されていると常識的に観念されている子どもを持つ親は「社会に対する責任」として「子殺し」をしなければいけなくなる。〈優生思想〉の極北である。これは30年近く前に、渡部昇一大西巨人氏とその息子の大西赤人氏に向けた差別的暴言と同型であろうし、そのような〈常識〉に対する闘争こそ、「青い芝」以来の障碍者解放運動のコアだったのだろうと理解している。ただ、勿論坂東さんは人間に言及しているわけでもないし、自らの文章を、アジテーションとして、或いは他者を貶める手段として使っているのでもない。だから、坂東さんを〈優生思想〉論者として非難するというのは行き過ぎであるとは思う。言いたいのは、ロジックは、言葉は暴走するものであり、その行き先として〈優生思想〉にも通じている可能性があるということだ。
また、既にkmizusawaさん*2が指摘していることだが、坂東さんが他者の気持ちへの配慮を持ち出している点も気になった。kmizusawaさんによれば、それは他者への配慮ではなく「自意識」なのだということだが、他者の気持ちなんてそんな簡単にわかるのかよという感じはある。しかもここでいう他者は人間ではなく、猫である。種の壁を超えた他者というのは、さらに他者性が強いはずなのだ。逆に言えば、そこで理解されたとされる他者の気持ちは「自意識」によって捏造されたものである可能性がさらに高いということである。
殺生について。私は少なくとも哺乳類や鳥類に関しては、食べる以外の目的で殺生することには強い抵抗を覚える。何故「哺乳類や鳥類に関しては」と限定したのかといえば、(私にとって)感情移入可能性の限界に関わっているからである。客観的に見れば、あらゆる生命は等価であり、それは仏法の立場からも正しいと思うのだが、自らに対して私を倫理的に振る舞わせようと動機付けるべく私に現れる他者というのは、勿論一方では全き他者性を帯びていながら、やはりどこかでsomeone like me(us)*3として現れてくるのではないかと思う。また、” like me(us)”ということが直感されない場合、理屈としてはわかっているけれど身体的・感覚的反応は起こらないということになる。それはただ私が〈不仁〉であるからだけなのかもしれない。ともかく、猫を殺すのだったら俺に食べさせろという中国人、特に広東人は多いのではないかと思う。
ところで、坂東さんのディレンマというのは、動物をたんなるペットではなく、卵を食べたりミルクを飲んだりするために飼っている人は、「社会に対する責任」以前に常に抱えてきたディレンマだということは指摘しなければならない。
また、人間が生態系を改変する能力が増大するに連れて、人間が生態系をマネージメントする責任も提起されてきている。これはたんに数の減っている種を保護することにとどまらない。増えすぎた種を生態系のバランスに配慮して間引きすることも含まれる。今回のことは、そのことに対する倫理的な問いを惹起する可能性も有しているとはいえる。坂東さんは「社会に対する責任」という或る意味で浅いロジックを持ち出しているが、もしこれが〈生態系に対する責任〉だったら、どう考えるのか。
言及できなかったが、この件に関しての谷川さんのテクスト*4も印象に残ったということは記しておく。

*1:報復というプライヴェートな事柄を国家権力に委ね・押しつけ、平然としている死刑制度賛成論者も同断である。

*2:http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060824/p1

*3:逆に言うと、視座を替えれば、ここでいうmeとかusというのも、someone like someoneとして現れるということがいえると思う。

*4:http://d.hatena.ne.jp/lelele/20060822/1156194202