要請された「感謝」

東京新聞』(但し共同通信による)の記事;


陸自サマワ支援で感謝状を要請
地元州議長らに

 【クウェート市=共同】イラク南部サマワで約2年半にわたって復興支援活動を続けた陸上自衛隊が、地元ムサンナ州評議会の議長らに対し、撤収する陸自に感謝の手紙を書くよう求める書簡を送っていたことが、15日分かった。現地での評価を日本国内にアピールする狙いがあったとみられる。

 共同通信が入手した書簡はアラビア語で記され、小泉純一郎首相が陸自派遣部隊の撤収を発表する2日前の6月18日付。小瀬幹雄・第5次復興業務支援隊長が署名し、州評議会のドワイニ議長に送られた。

 書簡は、陸自支援の成果を「派遣部隊員の奮闘の結果」と指摘した上で「陸自隊員を含む日本国民に、あなたの手紙を伝えたい」などと要請。手紙は日本メディアを通じて公表されるとして「(陸自の活動に対する)あなたの心からの支持を多くの人々がはっきりと知ることができます」と直接的な表現を避けながらも陸自に謝意を示す内容を書くよう求めた。

 今月5日、宿営地を訪問し感謝状を手渡したサマワのマヤリ市長は「宿営地の通訳を通じて手紙を求められた」と説明。一方、感謝状を送らなかったドワイニ議長は「陸自側の要請の趣旨が(直接的ではなく)よく分からなかった」と語った。

 陸自派遣部隊広報は「要請したのは事実。(活動に対する)評価を対外的にアピールするためではなく、陸自隊員に何らかのコメントをもらえないかという意味合いだった」と話している。

(2006年7月15日)
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/iraq/060715T1556.shtml

考えてみれば、世間における讃辞とか祝辞の類というのは殆どが自発的なものというよりは要請されたものだろう。結構としてはそれと同じか。
ところで、「隊員へのねぎらいなら上司がきちんと評価して慰労すればいいことでは? 感謝状貰わないと実感できないってこと?」*1と疑問を呈することもできるかもしれないが、外部の、それもそれなりに社会的地位とか名声とかがある人のお言葉ということが重要なのだろう。「上司」といっても、同じ組織のメンバーなので、その言葉の真偽は自己言及の罠に陥ってしまう。自画自賛というか、自分で自分を褒めるってどうよということ。独裁的なトップをいただく組織(会社、学校、宗教etc.)のトップが本を出版したりすると、どっかの(社会的地位のある)人の讃辞を貰ってきて、それで内部的に盛り上がるということはよくあることだろう。また、いかがわしいヴェンチャー・ビジネスの経営者とか新宗教の教祖が、海外の大学の名誉博士号とか有名人との対談とかどこどこの公的機関の感謝状とかをやたら欲しがるというのも、勿論対外的なプロパガンダ効果というのもあるのかも知れないけれど、同時に(というかそれ以上に)対内的な社会統制というか、自らの正統性を組織内部において確立しようという欲望も絡んでいる筈だ。ただ、多くの場合、それがやらせであることは殆どのメンバーが気付いているのであり、つまり社長様etc.の偉業を本気で信じているわけではないのだが、それによって組織統制が崩壊するなんていうことはなく、やらせである外部の讃辞は内部においても空虚に反復され、いつの間にか空虚な客観的事実として組織の空間に居着いてしまう。自衛隊は独裁的なカリスマによって率いられた組織ではなく、ただの官僚組織であるので、上の話は当て填らないが、組織なり集団なりの正統性が外部に由来するという構造は不変であろう。また、そのような組織では、勿論内部でも、組織というかそのカリスマ的トップに感謝するよう不断に働きかけられている。これは、国家が対外的な評判を気にするのと同時に、国民に愛国心を涵養しようとするというのにも通じている。このようなやらせによる讃辞の空虚な反復は第三者的に見ればお馬鹿な猿芝居にすぎず、かえって(一般的な)対外的イメージを損ねてしまう(事実そうなのだが)と考えるのは、組織を真に愛する者なのかも知れないが、国家のようなマクロな集団の場合はともかくとして、メゾな組織の場合は、そのような声は親密な間柄での会話にとどまって、公式に発せられることはあまりない。

さて、上の記事のミソというのは、(日本的?な)婉曲なコミュニケーションがイラクでは通じなかったということか。