北中正和『サッド・カフェでコーヒーを』

実家に置いてあった本の中から、北中正和『サッド・カフェでコーヒーを−−北中正和のロック地図』(冬樹社、1980)を読む。今気づいたのだが、私が持っているのは(元々ブック・オフで買ったものだが)1983年6月28日の日付が入った著者サイン本。
第1部「ロックの成熟」にはローリング・ストーンズボブ・ディランザ・バンドといった60年代から活動していた人々の70年代についての文章が、第2部「砂漠の息子たち」にはイーグルスを初めとする〈ウェスト・コースト〉の人々についての文章が、第3部「ロックの不連続線」にはパンクを中心とした動きについての文章が収められている。この本を読むと、1970年代後半から80年代初頭にかけてのロックが(まさに本の副題にあるように)「地図」の如く一望できることになる。勿論、同時代的な勘違いや限界も含めて。
刊行後20年以上も経ってしまったこの本に対して、21世紀の地平から後知恵的な批判を行うというのも面白くないだろう。現在において、ここで言及されているミュージシャンをロックの歴史、或いは文化史によりコンプリヘンシヴに位置づけることが可能であることは当然である。あくまでも、先ず昔の同時代的証言として扱うことが妥当だろう。
では、そのようなことを取っ払って、〈音楽〉に纏わるエクリチュールとして読むに値しないのか。そんなことはないと思う。


エルヴィス・プレスリーたちによってロックが生まれた最初の10年間は、ロックは言うまでもなくティーンネイジャーの音楽だった。チャック・ベリーの「スイート・リトル・シックスティーン」のような音楽を聞くと、若者たちが大人になることを拒否し、16歳は永遠であると宣言しているような気がしてくる。
ビートルズボブ・ディランがアルバムを出すごとに変貌をとげることではじまった次の10年間は、ロックはティーンネイジャーから20代へ、歳とともに成長していくもののように思えた。『サージェント・ペパーズ』でのサウンド・テクニックの開発。『ブロンド・オン・ブロンド』での無意識の領域まで拡がった歌詞の冒険。成長はとどまるところを知らないのではないかとさえ思えた。(略)
ロックの前衛が精神的な意味でいったん「大人」の領域にたどりついてしまうと、あとはどのようにちがったたどりつき方をし、どのように成熟していくのかという問題だけが残されることになる。(略)
70年代も数年を過ぎると、ロックの変貌を推進してきたミュージシャンたちはいっせいに30代に突入しはじめ、映画『エルヴィス・イン・コンサート』で、彼がロックをやったあと、肩で激しく息を切る姿を見てからは、誰もが歳をとることに対する漠然とした不安を感じないではいられなくなった。60歳のミック・ジャガーが腰をくねらせながら「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」をうたう姿を想像する冗談が語られはじめた。ロックにとって年齢がこのような形で話題になるのは、かつてなかったことであった(「ロックの成熟をめぐって」、pp.48-49)。
勿論、現在「60歳のミック・ジャガーが腰をくねらせながら「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」をうたう」というのは、「想像」でも「冗談」でもなく、現実である。かつてのロックの英雄たちは皆(生き残っているとすれば)老人なのである。しかし、ロックと成熟(老化)という問題は別にこの時代に限定されるわけでもあるまい。北中さんも

ロックはそれを演奏する人間の肉体のリズムが凝縮され、構成されて成立している音楽である。したがってミュージシャンの精神的かつ肉体的な年齢に左右される度合がきわめて大きい。こういう言い方は不謹慎かもしれないが、エルヴィス・プレスリーが死んだ時、それを悼む一方、どこか心の片隅でほっとするものをぼくは感じたものである。それは、かつてあの天才的表現を可能にした肉体の現在と彼が格闘している姿を見るたび、感嘆すると同時に残酷なものを見る気がしてならなかったからである(p.45)。
と言っている。さらに言えば、成熟(老化)の問題、或いは如何に成熟(老化)を引き受けるか/拒絶するかというのは、ロックにとどまらず、ユース・カルチャーが構造的に孕んでいる問題であるといえよう。また、成熟(老化)の問題は、ミュージシャンやファンの生活史のレヴェルだけでなく、社会史的レヴェル、ロックというジャンルそのもののレヴェルにも関わる。北中さんは、ボブ・ディランの音楽のコアに「アメリカ」に対する「憎悪」を見出し(p.40)、

しかし彼の音楽が商業的な成功を収めたことによって憎悪そのものがパターン化し、レコードというメディアがもたらす効果によって、逆に表現が圧迫されるという事態もまた生じてきた。70年代になって、ロックンロールがレコード・ビジネスの主要商品となるに従って、その危険性はますます大きくなっている。そこでは表現が政治的でプロテスト・ソングであれば免罪符が得られるというような単純な理屈はもう通らなくなっている。なぜならそれもまたレコードとして商品になってしまえば、ピンク・レディと同じ地平に並ばなければならないからである。もしミュージシャンが表現を守ろうとすれば、レコード産業のシステムをコントロールする必要があるということも(これは単に商業的な意味で言っているのではない)明確になってきた(p.41)。
と述べている。勿論、この背後には60年代のカウンターカルチャーとその挫折があるわけだが、あらゆるサブカルチャーにとって、メインストリームの価値観或いは制度と如何に折り合いをつけるのかということは、やはり構造的に孕んでいる問題である。ライフ・ヒストリーのレヴェルにまた話を差し戻せば、「メインストリームの価値観或いは制度」と折り合いをつけることは屡々成熟と同義とされている。
このようなロックにおける成熟(老化)という問題がこの本の核となっていると思われるが、それにしても収められたテクストは玉石混淆である。一方では、ザ・バンドイーグルスジャクソン・ブラウンを巡って、この成熟(老化)を具体的・内在的に*1再構成しようとする努力は感動的でさえある。それに対して、第3部「ロックの不連続線」に収められたテクストは殆どが〈ゴミ〉であるといっていいだろう。これは後知恵的に貶しているのではない。多分、1980年にこれらのテクストを(同時代的に)読んだとしても、唾を吐き掛けていただろう。ここにあるのは、レコード会社辺りから提供された資料を適当に切り貼りして、そこにちょっとしたマーケティング的或いは社会批評的なスパイスを振りかけただけの代物。勿論、著者を弁護しようとすれば、ここで取り上げられているミュージシャンたちが当時まだ成熟以前の段階にあったこと、また世代的にも著者が内在的にコミットメントすることが難しかったであろうこと等々という理由を見出すことはできよう。だったら書くな、沈黙しろよといえないこともないのだが、それを含めて、1970年代後半から80年代初頭にかけて、ある世代の人にロックがどのように知覚され・享受されていたのかということの証言として、この本はあるのか。
ところで、ビートルズを巡って、音楽という社会制度が根本的には〈想像の共同体〉であることを指摘した箇所−−

(略)どんなファンも、自分の部屋でひとりレコードなりラジオなりでビートルズを聞く体験が、他に同じ体験をしている無数の人間がいるという想像上の共同性を含みながら、あくまでも個人的なものであるという点において、実は同じレベルにいたと言うこともできる。そしてそうしたファンが実際に無数にいて、空想上でなく現実に集まったのが、ビートルズの武道館でのコンサートだった(p.17)。
−−は秀逸であり、これは不易に属するといえよう。
因みに、タイトルにある「サッド・カフェ」だが、これはイーグルスLong Runに収録された曲名に由来する。この名前のプログレ・バンドもあったのだが。

*1:それぞれのライフ・ヒストリーに内在的という意味。