話題が噛み合わないだけ

http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060410/p1経由で、「若者自立塾ニートの対話力不足に照準(東京)」という『読売』の記事*1を知る;


若者自立塾ニートの対話力不足に照準(東京)

 増加するニート対策として、昨年7月にスタートした「若者自立塾創出推進事業」で、厚生労働省から委託を受けた福生市の「若者自立塾」では、ニート共通の対話能力不足の解消に力点を置いた訓練で効果を上げている。対話をきっかけに、意欲や方策を見いだし、就労に結びつけるケースが増えている。

 (黒岩竹志)

 新潟県出身の遠藤崇之さん(30)は、大学を中退後、専門学校でコンピューターを学んだ。しかし、仕事に対する漠然とした不安から就職できず、一日中何もせずに過ごしていた。30歳になる前に、何とかしなくてはとの思いから、インターネットで知った「若者自立塾」に入塾した。

 NPO法人青少年自立援助センター」(工藤定次理事長)が運営する塾では、労働体験をしながら毎朝7時の起床など規則正しい合宿生活を送る。仕事は、市内の集合住宅から回収する資源ゴミの分別や、市民団体と協力して行う不要になった車いすの回収と整備、援農作業などをしている。労働体験のほか、キャリアカウンセリング、パソコンの資格取得講習などもあり、現在、20代前半を中心に男女10人が入塾している。

 入塾した若者に共通しているのはコミュニケーション能力の低さで、対話能力を向上させることに力を注いでいる。例えば、援農作業をしている時に、農家の人に「トマトが真っ赤になったよ」と話しかけられても、「そうですね」と答えるだけで会話が終わってしまう。資源ゴミの分別作業でも、ただ黙々と作業を続けるだけ。副塾長の石井正宏さんは、自発的な発言から生まれる対話能力こそが意欲の源と考えてコミュニケーションを重視している。分別作業中に、「これはどのカゴですか」という言葉が発せられれば、それだいけで一つに進歩だという。

 石井さんは、「仕事の内容より、休憩時間に同僚と会話ができずにつまづきを感じた塾生が多い。対話が成立すれば、意識が外に向き、好奇心なども増え、働く意欲も沸いてくる」と話す。

 遠藤さんは、「最初は、会話をすることがしんどかった。同じ悩みを抱えた人と話をすることで、作業への意欲も沸き、向かっていきたいという気持ちが生まれてきた」と話す。遠藤さんは現在、ハローワークに通い、仕事に就こうとしている。

 塾の終了者の中には、コンピューター関連会社の社員になったり、運送会社でアルバイトとして働くなど、対話能力の向上が就労への意欲に結び付いている事例が増えている。石井さんは、「ニートの若者は、小さいころは活発だった場合が多い。しかし、過度の期待やちょっとした失敗で、コミュニケーション力を失ってしまった。塾は元のキャラクターにリセットする場になっている」と話している。

(2006年4月7日 読売新聞)

この中の「トマト」問題だが、これは「コミュニケーション能力」の高い・低いの問題なのだろうか。そもそも「コミュニケーション能力」っていうのがいまいち意味不明であるということもあるのだが。たんに話題が噛み合っていないということなのではないか。農民にとっては「トマトが真っ赤になった」というのは重要(significant)なことであろう。また、グルメにとっても。しかし、そう話しかけられた人にとっては、「トマトが真っ赤になった」かどうかというのは、会話のトピックとしてのレリヴァンスを認められなかったということだ。ただそれだけ。勿論、農作業をしているのだから、トマトの成熟の具合くらい関心を持てよとは言えるかも知れない。音楽に全く関心のないCDショップの店員とか本に全く関心のない書店員というのはやはり変だ。でも、その人は自ら望んで農作業をしているのではないわけですよね。また、農業が面白いと感じているかどうかも定かではない。そうだったら、トマトの成熟の具合に主体的な興味を持っていなくても当たり前といえば当たり前*2。日本語には、対人関係を壊さずに自分にとってレリヴァントではない会話をはぐらかすための仕掛けがあって、


――どこまで行くの?
――ちょっと、そこまで。


というのはその代表的な例だけれど、ここで発せられた「そうですね」という受け答えだって、そういう仕掛けの一例ではある。また、「仕事の内容より、休憩時間に同僚と会話ができずにつまづきを感じた塾生が多い。対話が成立すれば、意識が外に向き、好奇心なども増え、働く意欲も沸いてくる」ということだそうだ。たしかに、話題が豊富で、どんなトピックでも話が接げるというのは「コミュニケーション能力」のうちなのかも知れない。しかし、この複雑化した社会においては、そのトピックと自分の関心がフィットするかどうかというのは自明なことではない。にも拘わらず、一般大衆様は自らのトピックが相手の関心とフィットする自明性を信じて疑わない。それどころか、自らのトピックに自分の関心をフィットさせない相手に対しては、「コミュニケーション能力」がないとか、〈空気が読めない〉とか言って憚らない。そうすると、レリヴァンスの不一致にセンシティヴなデリカシーを持った人はますます沈黙に追いやられ、粗野な人の声のみが響きわたるということになる。だから、「対話能力」云々とかいうならば、先ずは白けさせること引かせることの肯定から始めなければならないということになる。
「コミュニケーション能力」はよく分からないといった。例えばmaroyakasaさん*3は、


「コミュニケーション」というのはお互いの意思疎通なわけで、その巧さこそが「コミュニケーション能力」と呼ばれるものなわけだ。であるからして、本来「コミュニケーション能力」ってのは、「自分とは異なる考えを如何に理解し、その上で自分の考えを相手に伝え、納得させられるか」どうかであるはずだ。

ところが、「空気を読め!」という叱責は、異なる考えは排除するぞ!という表明でしかなく、相手に自分の考えを伝えずに、とにかく「お前があわせろ」と主張することだ。「コミュニケーション」とは全く逆の行為なのだ。

「空気を読め!」は、単に自分が、大勢の人(または権力のある人)と同じ考えを有していて、その力をバックに相手を強引にこちら側へ引きずり込もうとしているだけなのだ。つまり、その発言者に「コミュニケーション能力」なんてない。あるのは政治力だけだ。

しかし、その政治力がゆえに「彼にはコミュニケーション能力がある」なんて話になってしまう。「コミュニケーション能力」じゃなく「大勢と同調できる能力」だろうが。

異物を排除したくなる気持ちは分かる。しかしそれでは、何の化学反応も起きないじゃねーか。「空気を読め!」なんて叱責する連中は「コミュニケーション能力」を磨く必要があるんじゃないだろうか?

と書いている。これだって、コミュニケーション=命令と解せば、立派な「コミュニケーション能力」ではある。つまり、命令する能力そして服従する能力。はたして、コミュニケーションの本義というのはそこにあるのか。そんなのは、人間−動物関係、さらには人間−機械関係の準位でもあるわけで、それを(人間レヴェルの)コミュニケーションの本義とするわけにはいかないだろう。

*1:http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news2/20060407wm02.htm

*2:関係はないが、「援農」という言葉、三里塚闘争以来、久々に聞きましたよ。

*3:http://d.hatena.ne.jp/maroyakasa/20060409#p2