Yamaguchi on TOEFL

承前*1

山口浩「なぜTOEFL義務付けなどという発想が出てくるのか」http://www.h-yamaguchi.net/2013/05/post-8204.html


自民党教育再生実行本部が大学入試にTOEFL義務付けを提言した」ことを巡って。少し抜き書きしてみる。


思い出してもらいたい。学校で習っていたころは今より英語ができた、という人は多いだろう。実際、イー・エフ・エデュケーション・ファーストという企業は各国で英語能力指数を調査しているが、日本での調査の結果、日本人の英語能力は18〜25歳がピークで、以降年齢とともに下がっていく傾向があるとしている*2

理由はいうまでもない。ほとんどの日本人は日本国内で生活しており、学校卒業後は、仕事の場でも日常生活でも英語を必要とせず、英語ができなくても支障がないからだ。こうした人々にいくら英語を教えても、学校を卒業すればすぐに忘れてしまう。逆にいえば、これらの人々の英語力が少々上がっても、グローバルに活躍できる人材が増えるわけではない。

もちろん、英語を道具として使いこなし、世界に飛び出していく人たちは一定数必要だ。そして経済のグローバル化が進み、そうした人材がより多く必要とされているのに不足している、というのが、TOEFL義務付けを提唱された方々の問題意識だろう。つまり問題は、「すべて」の日本人の「平均」的な英語力ではなく、仕事で海外と関わる一部の人たちの人数や能力をいかに向上させるかということだ。

その意味では、英語を使うことなく一生をおくる大半の日本人が英語を話せないことよりもむしろ、英語を話せない政治家*3が平気で政府の代表として国際会議に送り出されていることの方がよほど憂慮すべき事態だと思う。

日本人は何故英語ができないのか。それは日本国内では英語が必要ないからだ。こういう認識はけっこう一般的であるようだ*4
さて、山口氏はそれを踏まえて、「「すべて」の日本人の「平均」的な英語力ではなく、仕事で海外と関わる一部の人たちの人数や能力をいかに向上させるか」という方策を語っている。幾つか提言がなされているのだが、最後には、問題を「学校教育」から生涯教育の文脈にずらすべきだと主張されている;

もう1つ、学生よりむしろ、実際に英語を使う必要に迫られている社会人向けのリカレント教育の方が、高い教育効果が期待できるのではないか。企業が優秀で意欲ある社員に「道具」としての英語を身につけてもらうための資金を支援するようなプログラムは、特にグローバル人材を必要としながら余裕がない中小企業などにはニーズがあるだろう。そもそもグローバル人材は社会人を想定した概念だろうから、支援対象を学校教育に限る方がむしろ不自然だ。所管官庁がちがうかもしれないが、そういう部分こそ政治家の出番ではないか。
それに続く締めの部分も引用に値するといえる。

総じて、報じられた自民党の案は、現在の問題はすべて学校教育にあり、教育さえ変えればすべてよくなるといった固定観念にとらわれているような印象を受ける。繰り返すが、日本人が英語が不得意なのは、基本的には必要でないからだ。現状を抜本的に変えたければ、日本を「英語が必要な社会」に変えるしかない。そんなにTOEFLがお好きなら、まず国会議員全員に受けさせてみたらどうか。TOEFLで一定以上の得点がなければ国際会議に出るポストには就けないことにすれば、国際会議に出ても英語でコミュニケーションできないと嘆く国会議員は一掃されよう。

もし政治家の能力は英語力だけで測るべきではないというなら、それは他の日本人についても同じだ。問題意識はわかるが、安易な発想で教育問題をいじくりまわすのはたいがいにしてもらいたい。