「団塊」と「ビートルズ」、それから「世代」の話

団塊」をダンコンと読んでしまったことがある人は多くはないけれど、少なくはない筈だ。
山口文憲亀和田武の対談「団塊の辞書に”反省”はない!?」(『本の話』131、pp.8-12.)。その中で、亀和田さんが


十年くらい前かな。中学校の同窓会に行ったら、同級生の一人が、すました顔で「俺たちビートルズ世代は」なんていい出すんで、あれには驚いた。「ウソつけ。お前あの頃、いつも橋幸夫舟木一夫ばっかり歌ってたじゃないか」(笑)(p.10)。
と発言している。「ビートルズ世代」が嘘だということは、たしか渋谷陽一も語っている。多分そうなのだろう。
ところで、「世代」とは何なのだろうか。ほぼ同じ年に生まれた人間の(統計的)集団。同じ年に生まれて、ほぼ同時に成長していけば、特に現代社会のようにメディアを通じて広範囲に同じ経験を供給することが可能であるような社会では、同じ年に生まれた(これは同じ年に小学校に入学することを意味する)というだけで、他の世代とは異なった意識や態度をもつ可能性があるとは取り敢えずいえる。「世代」は名前をつけられることが多い。例えば、「団塊の世代」とか「ビートルズ世代」とか。「団塊の世代」というのはその世代における出生率の高さを捉えたネーミングであるが、後者「ビートルズ世代」というのは、その世代を特徴づけるとされる出来事の経験に焦点を当てたネーミングである。〈全共闘世代〉というのもそう。 問題なのは、同じ年に生まれて同時に成長したからといって、全員が同じ出来事を経験しているとは限らないということである。「ビートルズ世代」の嘘はこのことに由来する。また、〈全共闘世代〉ということだって、その時代に大学進学を果たさなかった人にとってはそもそも関係ないということになる。(勿論強度の違いというのはあるけれど)全員が経験することを強制されてしまうような出来事というのは戦争とか革命、それから景気の変動くらいのものか。世代のネーミングは世代外に由来する場合もあれば、同世代に由来する場合もあろう。「ビートルズ世代」というのがどちらに由来するのかは知らない。どちらにせよ、一旦世代のネーミングが確立すれば、そのことによって、上の例におけるような、ネーミングにおける例外者(実は統計的にはマジョリティだったりする)も自らの経験・記憶を捏造して、世代の名前にアイデンティファイするということもありうるし、世代の名前があることによって、殊更にそこから距離を置く態度表明をする人もあるだろう。つまり、ある特権的な出来事の同年齢的・同時的経験が他の「世代」との意識や態度の差異をつくり出すだけでなく、(少なくとも公に語られ・示される)意識や態度の差異そのものが「世代」に名前を与えるという振る舞いの効果である可能性がある。勿論、よくある〈世代まるごとバッシング〉もこのネーミングの効果である。バッシングするためには、何か〈根拠〉がなくてはならず、〈根拠〉とされる〈重要な〉出来事が探し出され、それに従ってネーミングがなされる。
以上は、レイベリングという振る舞いが個々人のアイデンティティのあり方に影響を与えるという話。別の角度から見ると、事態はちょっと複雑な様相を呈するようにも思える。勿論、人口学的には同じ世代に対して複数のネーミングがなされることは、「団塊の世代」と「ビートルズ世代」のように多々あることだし、そもそも「世代」というのは複数のネーミングに開かれているといえる。世代間ではなく、同世代間の関係ということだと、大袈裟に言えば、世代のネーミングというのは〈文化的覇権闘争〉という側面も持つのではないか。「ビートルズ世代」という場合、「ビートルズ」のファンが「橋幸夫」のファンに覇権闘争において勝利したと言えるかも知れない。しかし、「ビートルズ世代」が確立して、「ビートルズ」のファンではなかったような人たちも「ビートルズ世代」を名乗るようになると、コアなファンとしては〈嘘臭さ〉を感じるようになり、そのような世代の存在自体(或いは、少なくともネーミングの正当性)が再度懐疑の対象となる。
同世代間における「世代」について重要なのは、世代へのネーミングが回顧的な振る舞い、〈過去の共有〉を目指した振る舞いであることが多いということだろう。そもそも、現在進行形的に、例えば〈全共闘世代〉が俺たちは〈全共闘世代〉だ!とか意識しながら、バリストをやっていたなんて考えられないよね。そんなこと考える暇があったらほかのことやれ、ということになっちゃう。〈過去の共有〉を媒介にしてコミュニティを立ち上げようとする場合、たんにXX年に生まれたということだけだと、あまりに素っ気ない。共有される過去には具体性、ディテイル性がある程度は要求される。〈同期の桜〉的なコミュニティの強靱さはその具体性、ディテイル性にある。しかし、〈同期の桜〉的なコミュニティは全社会を覆うことはできない。何故なら、もしそうしようとしても、そのことによって肝心の具体性、ディテイル性が損なわれてしまうからだ。そうすると、世代外的にレイベリングされた名前を取り敢えず借用してしまうのは手っ取り早いのかも知れない。それだったら、みんなが知っている可能性が高いからだ。或いはメディア化された出来事。それはある程度のディテイル性を備え、メディア化されている以上、あまり経験していないような人でも参加、つまりは知ったかぶりが可能だ。また、〈文化的覇権闘争〉にしても、〈過去の共有〉を巡って、つまりどんな過去が共有されるべきかを巡っての方が起こりやすいとはいえるだろう。
さて、「世代」の統計的意味はともかくとして、個々人のアイデンティフィケーションの対象として「世代」を語ることに、現在或いはこれから将来、意味があるのだろうか。上でも述べたかも知れないが、世代というアイデンティティの媒介となるのは、先ずは戦争とか革命といった全社会を揺るがすような出来事や(勿論それと重なるが)メディア化された出来事の共有である。革命は起こりそうもないし、戦争も(少なくとも先進国では)全社会を揺るがすものというよりは貧乏人の就職先ということになっている。メディア化された出来事はどうか。〈関心の共同体〉の〈島宇宙〉化が昂進すれば、良くも悪くもある種の〈文化相対主義〉が蔓延して、他の〈共同体〉との〈文化的覇権闘争〉にも関心を示さなくなるということもあり得る。そこから結果するのは、メディア化された出来事の共有による「世代」の構成が全体社会との繋がりを失うことであり、主観的リアリティとしての全体社会の後退である。より現実性があると思われるのは、ある世代に対する世代外からの一括的なバッシング(スティグマとしての世代)に対しての対抗的アイデンティティの構成だが、スティグマを引き受けつつ、それに対抗し・反撃するという仕方(「パーリア」としての世代)が主流になるのか、それとも〈成り上がり〉的心性が働いて、スティグマからのお目こぼしを希う仕方が主流になるのかはわからない。

ビートルズ」に戻るが、ビートルズが偉大なロック・バンドであることを否定できる者はいない。そのことには、同時代的な人気投票やレコード・セールスという裏付けもある。しかし、「ビートルズ世代」という言い方って、どうなの?ビートルズはあくまでも、広く取ればブリティッシュ・ロック、より狭く取ればマージー・ビーツ(日本的にいうところのリヴァプール・サウンズ)の一環であり、その米国進出も当の米国ではBritish Invasionの一環として捉えられていた筈。