ファッションは自己呈示のひとつの仕方であり

少し前の記事ではあるが、journalism-1さんという方*1


さて、なぜ「GAPとユニクロに気をつけろ!」なのかというと、両ブランドとも「お得感」が「ウリ」なわけですが、その「お得感」の正体は「ベーシックなデザインで飽きが来ない上に、値段が安くて品質が【そこそこ】良い」というものなので、「おしゃれ心」をそそらないというより損なうように出来ているのですね。だから子供のころからユニクロに慣れ親しんでいると、「おしゃれ心」の育ちようも無く「センスのいい着こなし」も出来ず、いつまでたっても「イケてない」格好しか出来なくなってしまうのです。そもそも「ファッションセンス」を養うべき思春期に周りに刺激的なファッション感覚の人物でもいないと、これは「ダダ滑り」的に「おしゃれ」でも「ファッショナブル」でもなくなっていってしまうのです。また、「おしゃれ心」をもともと先天的に持っている人の場合、最初にユニクロやGAPから入ってしまうと、ついつい値段に気を抜いてしまってどんどんアイテムを買っていってしまい、もともと品質は【そこそこ】いい上に大体の服に合うようなデザインなので、気がついたらタンス一棹丸ごとこれらのブランドの服で埋め尽くされてしまって、「これ以上何も買えなくなってしまうから、中古屋に売り飛ばすしかなくなってしまうのね〜(困惑)」という状態になってしまって、結局中古衣料のお店にこれらのブランドの服が山盛りになってしまって、今や「量り売り」がされている始末。
と書いている。また、この記事、コメント欄もかなり盛り上がったようで、コメント欄から同氏の発言を拾ってみると、

GAPにしろ、ユニクロにしろ、「ベーシックで飽きが来ないもの」のため、子供のころからそうしたものばかり見て育つと、なかば「制服化」してしまうのですね。ルールから、逸脱することが、どういうことかわからなくなってしまうのです。
ラクチンな服装で、シンプルなものがいい」(GAPやユニクロの服はそうですね)、という考えが定着すると、「個別化」が出来なくなるのです。そうなると「服飾」において「おしゃれ心」を発揮して、「センスがいい」というより、「着ている人のセンスがいい」という、その人の性格(今どきで言う、キャラ)による「個別化」になるのです。それは、「イケてる」けれど、「服飾」で「イケてる」のではないですよね。
「キャラ」が「イケてる」人であれば(その事が周りの人に認知されていれば)、どの服を着ても「イケている格好をしている」ということになるでしょう。

「おしゃれ」ですが、これは服を着る際のドレスコードを、うまく逸脱する事です。「ファッション」は、「流行しているおしゃれの方法」として雑誌とかに取り上げられるわけです。コメントの上のほうに書いたと思いますが、「おしゃれ」は不易に属し、「ファッション」は流行に属する概念なのですよ。だから、流行に反していても、おしゃれな人は居る、という事は充分、みみさんのコメントの内容から察するに、お分かりいただけると存じます。
また、journalism-1さんは「おしゃれ」と「ファッション」を区別して、

ま、もちろん「おしゃれ」と「ファッション」の違いはあります。「おしゃれ」というのは、どちらかというと不易の方に属していて、そもそも「おしゃれ心」が無いと出来ないもので、ある種の色気(欲望といい代えることも可)が無いと創めからやろうとは思わないものです。それに対して、「ファッション」というのは、まさに「流行」であり「流行り廃り」「トレンド」「傾向」といったものが確実に存在し、その流れに乗らないと「ダサい」という「レッテル」を貼られてしまうもので、何か「集団的無意識の発露」とか「シンクロニシティ」とでも言うべきものがそもそもの発端となってスタイルが出来上がっていく、という部分もあれば、明らかに情報を発信する側やメーカーやデザイナー主導で出来上がっていく「ブーム」もあります。
と書いている。ただ、英語のfashionには「流行」という意味は勿論あるが、「様式」とか「流儀」といった意味の方がより語源に近い古来の意味であるといえる。また、動詞としては常に後者に関係する「形づくる」という意味で使われる。だから、ここでいう「おしゃれ」もfashionは包括しているのであって、「おしゃれ」というのは他者に向けた自己の様式化と言えなくもない。そのような意味では、「おしゃれ」というかfashionそれ自体は「不易」であるとはいえる。「流行」に乗ろうが、それに逆らおうが、それを無視しようが、はたまた「流行」の存在を知らずにいても、他者に向けて自分をある様式を持った者として呈示することは、fashionなのであり、それは私が他者と関わっているという意味で社会的存在である以上、何時でも何処でも行われてきた(いる)といえよう*2
さて、journalism-1さんの主張のキモは「子供のころから」というところにあるのではないかと思う。現在に於いてファッションについて語るには、鷲田清一氏を無視することはできないのだが、鷲田氏によれば子供服は制服である。つまり、親を初めとする大人が勝手にイメージした〈子供らしさ〉の投影、そのようなものとしての〈子ども〉を演じるための制服。だから、ファッションの個体発生的な端緒は〈制服からの逸脱〉である。この点でも、journalism-1さんの「おしゃれ」観は妥当なものだといえるだろう。「子供のころから」GAPを着る。この場合、最初にGAPを選んだのは本人ではない。親、特に母親であろう。で、GAPは値段も手頃だし、トレンドも採り入れており、見栄えも悪くない。つまり、決してださい服ではない。そうであるが故に、親に反抗して親の支配を脱すべき思春期に親の支配を脱することができなくなってしまうということだろうか。母親がださい服を与えているなら、いやでも反抗せずにはいられないわけだが。ところで、これがGAPやUNIQLOではなくて、Brooks Brothersだったらどうなのか。Brooks Brothersの服を思春期の子が着るというのは、〈優等生的〉で何となく小っ恥ずかしいだろう。当然、反抗の対象になりますわな。しかし、それでも幼時から培われたgood tasteは保持される。ということで、「おしゃれ」な人間を育てたいならば、親としてはBrooks Brothersを初めとするトラッド系の服を子どもには与えるべしということになる。勿論、思春期に反抗が起こればという条件の下で。
話を戻すと、所謂〈非モテ系〉の問題というのは、自分のtasteの基本的な部分が母親の支配を脱していないということなのだろうと思う*3。ヒロノミヤを初めとする皇族がイケてないのも同様の原因に帰せられる。何しろ、家来が全てお選び申し上げているのだから、自らのtasteが形づくられる筈もない。〈イケてなさ〉或いは〈だささ〉というのは〈母親〉の支配下にありつつそれを自覚していないということにありそうだ。現在あるのかどうか分からないけれど、1980年代に〈童貞ブリーフ〉という言葉があった。童貞が穿いているスーパーとかで売っている白い安手のブリーフ。そこには〈ママが買ってきた〉というニュアンスが含意されていた。現在も童貞は白いブリーフを穿いているんでしょうか。多分、それはオヤジも穿いている。上野千鶴子氏が書いていたと思うが、日本の主婦は(下着を含む)服を通じて家庭の中の男(夫と息子)をコントロールする傾向があるという*4。勿論、親元を離れていれば、直接的にコントロールされていることはできないだろうが、間接的には根本的なところで支配されており、自らのtasteを確立できないでいる(確立しようともしない)ということだろう。
ところで、GAPとUNIQLOは順序が逆でしょ? 「みなさんもそろそろおなじみになってきた「GAP」」というけれど、1995年には既に数寄屋橋と渋谷の公園通り(PARCOの隣)にGAPはあったわけだし、UNIQLOが全国的に知られるようになったのはそれから数年後、世紀が変わったあたりでしょう。少なくても、私はGAPの方がUNIQLOよりも先に知った。亜細亜で安くてそれなりに趣味のいいカジュアルを提供するということを展開したのは、(何故か日本には進出していない)GiordanoとかU2といった香港系のブランドを嚆矢とするのではないかと思います。これらのブランドは基本的にユニセックスであり、その点ではUNIQLOに近い。
このjournalism-1さんの記事に対するLeiermannさんという方の反応*5がかなり??!!なものなのだが、こちらについてはまた日を改めて。

*1:http://grayzone.exblog.jp/3357514

*2:勿論、ファッションには他者に向けての側面だけでなく、私の身体にとっていちばん身近な外部としての衣服のフィットやアンフィットを悦しむという、ある種オートエロティシズム的な快楽の側面があることを指摘しなければならない。

*3:この話、女性には当てはまらない。

*4:実証的には??こういうのを実証した論文とかあれば、教えて下さい。

*5:http://d.hatena.ne.jp/Leiermann/20060112/p1