人生は引用

 http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060224/p1を経由して、http://blog.livedoor.jp/springflavor122/archives/50165246.htmlを知ったのだけれど、読んでみて思いついたのは、人生は引用なりということである。身体=物質としての私は食物の引用からなっている。What you are is what you eat.である。精神としての私を織りなしているのは何かといえば、引用された他者の言葉である。私ならざるものを引用するということでは食物と同様なのだが、食物の場合、それが直接他者の目に見える仕方で顕わになることはない。What you are is what you eatと言ってみたが、あなたを見て、あきたこまち*1が好きなのかコシヒカリが好きなのか、うどんが好きなのか蕎麦が好きなのかを言い当てることはできない。しかし、言葉の場合、引用された言葉たちは、今度は〈私の言葉〉として他者にとって引用可能なものとして現れてしまうわけだから、私の自己が他者に対して提示されるならば、つまり世界から或いは社会から完全に引き籠もってしまわない限り、私の引用元は常に他者に対して顕わになっているといえる。私の言葉を読んだり聞いたりすれば、私がどんなものを読んだり聞いたりしているのかを言い当てることは原理的には可能なのである。私は引用行為を意識もせずに行っているので、というよりも私の言葉の全てがそもそも他者の言葉の引用なのであり、それを全て意識するのは不可能なので、引用元が顕わになるというのは、第一義的に他者の特権に属することになる*2。上に挙げたテクストを読んで瞬時に感じてしまう〈変な感じ〉というのは、私は自らの引用を意識せず、どこから引っ張って来たのかも忘却してしまうが、他者にとっては瞬時に顕わになってしまうということと関係があるだろう。その瞬間、私は他者に読まれている私を想像する。ところで、無知な者が知ったか振ることは不可能であるのに対し、知者は無知を装うことができる*3。勿論、教養は顔に出てしまうということはあるわけだが。上のテクストが〈装われた無知〉なのかどうかは断言する術はないが、少なくとも完全に否定することはできないだろう。
意識もせずにする読み=引用を敢えて意識的に行うこと、それは狭義の〈読書〉ということになろう。読むことのはじまりにむかって*4
それから、突っ込みへの突っ込みですが、「可及的速やかに」は、たしか何かのCMで使われていた言葉じゃなかったかしら。

*1:現在、自宅で食べているのは、吉林省で作られたあきたこまちである。

*2:勿論、他者だって、私の言葉を意識もせずに読み、意識もせずに引用して、また自らの言葉として顕わにしているわけだが。

*3:或いは、目明きは目を瞑ることができる。

*4:金井美恵子先生からの引用です。