デリダよりもフーコー?

久々に「サバルタン」なんて言葉を使っちゃった*1
ちょっと思いついたのだけど、これは誰でも思いつていることなのだろう。「サバルタン」研究といえばガヤトリ・スピヴァク*2。彼女はデリディエンヌだけど、「サバルタン」を考える場合は、デリダよりもフーコーに即してみた方がわかりやすいのではないか。例えば狂人。「癲狂絶不可能在史書中自己説話、是精神病医生替它説話、只有理智的文字和声音」(尚杰『帰隠之路:20世紀法国哲学的踪跡』*3第7章「福柯:独断與断裂」、p.108)。狂人の語りが顕わになるのは医療制度に捕捉されたときであるように、犯罪者の語りが顕わになるのは警察権力や司法制度に捕捉されたときである。それも制度によって枠付けられ、ときには制度的に代言される発話として。またカルロ・ギンズブルグの『チーズとうじ虫』。

チーズとうじ虫―16世紀の一粉挽屋の世界像

チーズとうじ虫―16世紀の一粉挽屋の世界像

さて、「上杉隆*4と「ツイッター」について語っている「文藝春秋上杉隆がほほえましい(笑)」というエントリーから、

インターネットによって、はじめて自分の声を外に届かせることができた人たちというのはたしかにいるのですね。上杉隆みたいなジャーナリストは、そういう人たちの声を拾い上げて増幅してもっと広く届かせるという作業をしようと思えばできたはずなんですが、しませんでした。
http://d.hatena.ne.jp/nessko/20130911/p1
という一節。