肯定でもなく否定でもなく/肯定でもあり否定でもあり

 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060125/1138154508或いはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060126/1138243560に関連して、tummygirlさんの


 「ジェンダーフリーは性差の否定を否定するべきか。」http://d.hatena.ne.jp/tummygirl/20060202/1138893168


から抜き書き;


ジェンダーフリー」が唱えられるようになった90年代後半に、LGBTの問題をはじめ、狭い意味での「男女平等」の枠では見落とされたり二次的なものとみなされることも多かった「ジェンダー」や「セクシュアリティ」をめぐる多様な問題設定が、フェミニズム(そして社会)が誠実に対応すべき課題として、より広範に認知されるようになっていったのは、間違いない。しかしそれは単純にそこにいたるまでの多方面での活動の結果にすぎず、「ジェンダーフリー」は(たとえば学校や会社、自治体などで講演会や勉強会を行うときの)便利な口実としてたまたまそこに現れたのに過ぎないということもできるだろう。

その反面で、「ジェンダーフリー」が狭い意味での「男女平等」を超える射程を持っているというまさにその点が、非規範的なジェンダーセクシュアリティへのフォビアを煽る形で(「ジェンダーフリーは人間を中性化する/性同一性障害を生み出す/同性愛者・バイセクシュアルを生み出す」)、「ジェンダーフリー」総体に対する攻撃を容易にしてきた。もちろん、「ジェンダーフリー」をどのような意味にとったとしても、つまり、狭い意味での「男女平等」のみならず、「らしさ」の問い直しや男女という性別の自明性への異議申し立てまでをもその試みの射程内におくものとして理解したとしても、それは人間を「中性化する」こととは明確に異なるし、「性同一性障害を生み出す」「同性愛・量性愛を生み出す」ことにもならないのだが、それはここでは問題ではない。重要なのは、「男女平等への反対を表明する」ことが少なくともタテマエとしては駄目なことになっていたのに対して、非規範的なジェンダーセクシュアリティへのフォビアはより強固に存在していたし表明しても良いものだと考えられており、したがってそれがもっとも攻撃しやすい、もっとも容易なターゲットになったということだ。そして、「ジェンダーフリー」が多様な試みを包括的に示しうるある種必然的にあいまいな用語であったことで、もっとも感情的な拒否反応を引き起こしやすい試みを通じて、既により広範に受け入れられていたはずの試みをもまとめて攻撃することが、可能になってしまった。

「量性愛」は多分「両性愛」の変換ミスですね。
 tummygirlさんの要点は、例えば「ジェンダーフリー」を「男女平等」に限定したり・置き換えたりすることは、バッシング(バックラッシュ)に対して最もヴァルネラブルな部分を隠蔽(少なくとも周縁化)することによって、自己貧困化を招来してしまうのではないかという危惧ということになるだろうか。また、曰く、

別にジェンダーフリーという用語を守れと言っているわけではないし、男女平等という目標が過去のものだと言っているのでもない。その用語を使うのが嫌なら使わなければ良い。男女平等、あるいは女性差別撤廃に焦点を絞りって話をしたり活動をしたりしたければ、そうすれば良い。ジェンダーフリーという造語が曖昧で日常言語ではないと思うのならば、「性差別反対」と言っても良い。けれども、ジェンダーフリーという用語を使わない理由、使わないでも良い理由を述べる過程で、あるいは「男女平等」の目標を再確認する過程で、フェミニズムが語るべきこと、対処すべきことの射程をわざわざ縮小する必要はないはずだ。「性差別」について語るべきだというときに、セクシュアリティにかかわる差別やトランスフォビアの問題を切り捨てて、わざわざそれを「女性差別」や「男女平等」の問題として言い換える必用もないはずだ。それでは、バッシングに対抗しようとするあまり、フェミニズムがもともと取り組みうる、そして実際に取り組もうとしていた多様な試みの一環を、こちらからすすんで「より擁護の必要に値しないもの」として切り捨てるのと同じことだ。
 私としては、肯定か否定かという二者択一を迫る問いのあり方そのものに、恫喝めいたものというか暴力性を感じてしまう*1。もしポストモダニズムなるもの――というよりも思想史上のポストモダンな地平――に何某かの意義があるとしたら、それは問いの焦点を〈肯定か否定かという二者択一〉から肯定/否定という対立そのもの、或いは肯定/否定という対立の前提としての共分母へと移動させたことであろう。多分、tummygirlさんも既にそのような〈ポストモダンな地平〉を生きてしまっているのだろう。
 勿論、社会の中には中性化されなければ(され続けなければ)ならない場もある。例えば、〈フェミニンな政治〉とか〈マッチョな政治〉とかがあっていいのか(ありうるのか)ということは問わなければならない。但し、脱ジェンダー化ということ自体に(例えばman/womanの対立を参照すれば明らかなように)ジェンダー的なバイアスがかかっていることが往々にしてあるので、事はそう単純ではないけれども。以前にも少し書いたかと思うが、バックラッシュの内実というのがジェンダーというシニフィアンのコノーテイションを強権的に制限し・固定しようというものなので、それに対する対抗というのは、コノーテイションの(過剰な)多様化ということに、取り敢えずはなるのではないかと思うのだが、如何だろうか。

*1:勿論、日常的な生においても理論的な生においても、取り敢えずの肯定か否定かをしなければ、生を遂行することが不可能となるので、取り敢えずの肯定か否定はする。しかし、それはあくまでも暫定的なもの、until further noticeなのであり、こちらが問題にしているのは、further noticeの可能性そのものを否認するような振る舞いである。