世界の外

 〈神〉、例えばその存在の有無、つまり有神論か無神論かを、抽象的に語る際に、英語や仏蘭西語も分からず、中東はおろか西洋文化の素養もあまりないような輩も、おそらく意識しないうちに、所謂〈アブラハムの宗教〉的な神観念を前提としているのは可笑しいといえば可笑しい。多分、日本神道に準拠すれば、そのような前提自体こそが奇異なものとなる筈である。正しい右翼的視角からすれば、そのようなこと自体が亡国的事態ということになるか。
 〈アブラハムの宗教〉を前提にすると、有神論/無神論というのは、世界(宇宙)の外部を肯定するか否か、そうした外部にいます一者が世界(宇宙)の存在者を創造(create)したことを肯定するか否かに帰着するのではないかと思う。また、transcendentはmundaneとともにtemporalとも対立するので、これは時間の外部を肯定するか否かでもある。
 神道においては、神の有無はそもそも問題にならない。問題となるのは〈敬神〉、つまり神に対して敬か不敬かということだけである。また、神とは〈奇しきもの〉なのであり、戦死すれば誰でも神になれるように、何でも(誰でも)神になりうるのである。詳しくは本居宣長大人のテクストに直接当たられたい。さらに、佛教による相対化を被って以来、神でさえ、解脱を願う衆生にすぎない。
 
 ところで、〈アブラハムの宗教〉でも、(神道とは別の理由によって)神の有無を論うことが(それ自体で)涜神となりうることは念頭に置いておくべきであろう。イスラーム学者の中田考氏は、〈アッラーの他に神はなし〉と和訳されることが多い〈アッラー・アクバル〉を、There is no god but Allah.と英訳する。つまり、神は存在しない、しかし、Allahに関しては判断が留保されるということになる。イスラームのロジックにおいては、これによって、私たちはあらゆる世俗的な束縛のみならず〈神〉の束縛からも解放されることになるのだが、一方では肯定否定に拘わらず〈神〉に言及すること自体、無限なるものを(言表可能な)有限なものへと引き摺り落としてしまうということになるのである。

 何故このような事どもを書き散らしたのか、その語境(context)を訝る向きもあろうが、mixiのある個人日記を横目で見たためなり。