リンクを巡って

 承前*1

 なんばさん*2からは、神崎正英氏の「リンクと権利と責任」*3を教えていただいた。多謝。
 さて、なんばさんのおっしゃる「Web サイトには「場所」としての側面があり、リンクは「道路」のように機能することがある」という視点だが、たしかに、


内輪でひっそりやってる掲示板がニュースサイトや2ちゃんねるなどで晒され、流れてきたはしゃぎすぎに踏み荒らされる、といった光景は長く Web を見てきた人なら何度も目にしてきたはずです。ちょうど閑静な住宅街の近くにコンビニができて若者がたむろするようになりゴミや騒音や雰囲気の悪化が問題になるようなものです。
ということはある。俗な喩えで言えば、新鮮な空気を入れるためには窓を開けなければならないが、窓を開ければ空気と同時に蠅とか蚊もまた入ってくる。また、なんばさんがそのあとに続けて書かれているような「やっかい」な問題も起こる。言葉はそれがpublishされた瞬間、引用可能なものとして著者(発話者)の許を離れてしまう。しかし、引用した者もその言葉を独占的に我有化できるわけではない。やはり、引用を含む言葉をpublishした瞬間に、それを手放さなければならないという事態はここでも反復される。(可能性としては)そのような事態がほぼ永続的に反復されるわけだ(いや、既に反復されている)。
 ここでは、なんばさんに触発されて、少し別の視点から考えてみたい。「場所」としてのサイトということだが、それはウェブ上のテクスト(画像等も含めたコンテンツ)が既に生成されてしまったものとして在るのではなく、生成途上のもの、work-in-progressとして、常に既に在るということ。勿論、あらゆるテクストはそのようなものとして在るだろう。しかし、ウェブの場合は、それが見えやすいかたちであるということだ。テクストを常に生成させる契機となるもの、それがここでは「リンク」なのだが、注意しなければいけないのは、その〈生成〉が「リンク」した私とは離れて行われてしまいうるということである。その可能性の対自化を促すものとして、なんばさんのご指摘は読みたい。
 で、私が「リンクは自由」を擁護するひとつの理由は私の存在論的有限性ということである。私の言うこと、書く物というのはそのままでは、極論してしまえば、有限な私の主観的妄想にすぎないのかも知れない。ハンナおばさんの顰みに倣えば、物が客観性を維持しうるのは無数の全く違った視点によって眺められることによってのみである。私の(既に私のではない)言葉たちは、他の(私とは全く違った)誰かによって眺められることを待っているといえるかも知れない。そうでなければ、「私の主観的妄想」という地位から解放されることはない。勿論、個人的な「私の主観的妄想」だったものがどういうわけか、(「私の主観的妄想」からも全然外れた)グロテスクな〈集合的妄想〉に化けてしまうというリスクは孕んでいるわけだが。
 なんばさんへの取り敢えずの応答。