http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20121110/1352510364
橋本健二*1『階級都市』に依拠して曰く、
この本によると、現在では下町の代表格のように思われている本所(墨田区西部)・深川(江東区西部)は、かつては「下町」にも入らない「場末」扱いだったという。戦後の1961年(昭和36年)に朝日新聞東京版に載った記事によると、明治・大正時代にはさすがに本所と深川は下町に数え入れられていたが、向島(墨田区東部)や城東(江東区東部)はまだ下町の埒外で、これらの地域が下町に入るのは昭和初期である。さらに、記事が掲載された1961年の時点でも、足立区・葛飾区・江戸川区の都県境近くの地域は下町から除外されており、葛飾区東端の柴又も下町から除外された地域に含まれる。映画『男はつらいよ』の第1作が作られた1969年には、柴又は下町に入るか入らないかの時代で、山田洋次監督によると、かつて下総国葛飾郡柴又村だった柴又の古くからの住人は、上野や銀座に行くことを「東京に行く」と言っていたそうだ。
まあ千葉人の立場からすると、
隅田川よりも東は千葉県固有の領土であるわけですが。
それはさて措き、
隅田川の両岸ということが重要な意味を持っている思想家としては、
清水幾太郎がいる。清水は1907年に
日本橋で生まれ、1919年に父親の転業のために、川を渡って、本所に引っ越した(
小熊英二『
清水幾太郎』、pp.6-7)。小熊が引用している清水の回想録『私の心の履歴』から孫引きをしておく。清水は「本所という土地には容易に慣れませんでした」といい、
日本橋では、川向こうのことを一口に本所深川と呼んで、下等な特殊地帯と見る傾向がありました。確かに、江戸時代以来の繁栄と趣味とをとどめている日本橋から見れば、本所は汚いのです。沢山の工場が立ち並び、空が煤煙で曇り、空気が臭いのです。工場から流れ出る汚水のために、下水はムカムカするような臭気を放っています。そういう汚水が方々に泥沼を作っていて、そこが塵芥の捨て場になっています。(Cited in pp.8-9)
と述べている。また「両国
*2では江戸つ子が大部分だったのに反し、本所では、どこを向いても、地方の出身者ばかりで、その人たちが無遠慮に方言を話すのです」(cited in p.9)。「山の手」-「下町」(
日本橋)-本所の関係について、清水は
一口に下町といっても、日本橋と本所は違います。日本橋から見れば、山の手は田舎風の野暮なものということになります。それは軽蔑すれば済みます。ところが、本所から見れば、特に、あの泥沼を渡った後から見れば、山の手は乙に澄ました支配者です。それは憎いものです。(cited in p.13)
と言っている。
小熊氏は
清水幾太郎と同じ「東京下町の庶民階層出身」の知識人として、
福田恆存と
吉本隆明*3の名前を挙げている(ibid.)。下町出身の知識人の系譜をさらに遡ると、
芥川龍之介がいる。龍之介は「
京橋区入船町八丁目一番地」、現在の
中央区明石町10-11に生まれ、生後8か月にして、母親の「発狂」のため、「
本所区小泉町十五番地」、現在の
墨田区両国3-22-11の芥川家へ養子に出された(See 関口安義『
芥川龍之介』、pp..1-8)。
さて、『Olive』の
1984年5月18日号には、
山手線の東側に、なぜ私たち*4は行けないのでしょうか? 池袋→秋葉原の外回りの外側、つまり東京都城北・城東地区に進入できない体になってしまった人は多い。
という言説が載っていた(
乙木一史「1984 東京通勤圏での
サブカルとオタクの距離感」『
ユリイカ』37-9、p.144から孫引き)。
See also
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100202/1265126531 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110506/1304625968