ブックオフにて

既に一昨日になるが、近所のブックオフで本を買う。

吉村正和フリーメーソン 西欧神秘主義の変容』講談社現代新書、1989*1

フリーメイソン (講談社現代新書)

フリーメイソン (講談社現代新書)

Ursula K. Le Guin『空飛び猫』(村上春樹訳)講談社文庫、1996
空飛び猫 (講談社文庫)

空飛び猫 (講談社文庫)

井田真木子『フォーカスな人たち』新潮文庫、2001
フォーカスな人たち (新潮文庫)

フォーカスな人たち (新潮文庫)

河野一郎編訳『ロレンス短篇集』岩波文庫、1986
ロレンス短篇集 (岩波文庫)

ロレンス短篇集 (岩波文庫)

竹内治彦編『グローバリゼーションの社会学八千代出版、1997
グローバリゼーションの社会学

グローバリゼーションの社会学

岡倉徹志『イスラム原理主義 神は恐ろしい教えを下したのか』明石書店、2001
イスラム原理主義

イスラム原理主義

一柳廣孝編『「学校の怪談」はささやく』青弓社、2005
「学校の怪談」はささやく

「学校の怪談」はささやく

慶應義塾大学経済学部編『市民的共生の経済学1 変わりゆく共生空間』弘文堂、2000
変わりゆく共生空間 (市民的共生の経済学)

変わりゆく共生空間 (市民的共生の経済学)

慶應義塾大学経済学部編『市民的共生の経済学2 マイノリティからの展望』弘文堂、2000
マイノリティからの展望 (市民的共生の経済学)

マイノリティからの展望 (市民的共生の経済学)

「らい」or「ハンセン」(メモ)

国の責任―今なお、生きつづけるらい予防法

国の責任―今なお、生きつづけるらい予防法

島比呂志、篠原睦治『国の責任 今なお、生きつづけるらい予防法』*1から少しメモ。第1部「いま、なぜ、らい予防法を問うのか」から;

篠原 (前略)まず、昨今、「らい」という言葉を使わないで、「ハンセン病」と言い換えてしまっていることについてご意見をうかがいたい。と言いますのは、ぼくは、「らい」の歴史と現実を直視するためには、「らい」という言葉とその響きにこだわり続けるほかないと思っています。島さんも、「らい」という言葉で「らい」の問題を語り続けておられますよね。
島 「らい」ということで、差別と偏見が続いてきたのですから、やはり「らい」ということでその間違いを直さなければならない。名称を変えたから、それらがなくなるというものではないわけだし、「ハンセン病」で解消できるというのは錯覚であり逃避だと思いますね。
ぼくは、戦後まもなく、ものを書きだした頃に特に意識して、漢字の「癩」という言葉を使いましたね。社会生活をしていた頃、新聞で「癩」という字を見るのも恐ろしいというか、そういう新聞があれば隠したくなるような気持ちでした。そういう字を逆に意識して使ってやろう、そのことによって乗り越えなくてはならないと思いましたね。最近は、たまに「ハンセン病」を使っているかも知れませんが。
篠原 (略)ところで、「らい」という言葉は古いんですね。
島 律令国家の時代の古文書に出ているんですが、「癩」という漢字も病気そのものも中国から朝鮮半島を経て、日本に入ってきたようですね。
篠原 「ハンセン病」は、菌の発見者としてのハンセンの名誉を讃えて「上」から降りてきた感じがしますが、患者たち自身が「らい」と呼ばれたくないということもあって、それに代わって、「ハンセン病」と呼ばせようとしたということもあるのでしょうか?
島 そうですね。「らい」という言葉を口にするのは抵抗があるんですよね。昭和二七、八年、全患協(全国ハンセン病患者協議会の略称)のらい予防法改正闘争のときに、「らい」という呼称を「ハンセン病」に改めてほしいという訴えをしました。ぼく自身は、「ハンセン病」だとスラスラ言えるというのも、逃げみたいな感じがしていましたけれどね。
今でも、らい予防法とか日本らい学会とか、正式には「らい」と呼んでいますけど、マスコミはほとんど「ハンセン病」ですね。でも、そこでも括弧して「らい」と注釈してありますから、読む人は、「ハンセン病? 新しい珍しい病気かな?」と思っていると、すぐ後に「らい」とある。「なあんだ、あの病気か」となって、逆に二度意識させますよね。
篠原 おっしゃることに同感です。時代に逆行した使い方は、自分のなかでも躊躇がありますが、分脈や歴史を凝視するために、ぼくもあえて「らい」という表現を使い続けます。(pp.13-14)
「癩」(or「ハンセン病」)に関しては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100220/1266666021 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100221/1266718304 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100429/1272510800も。

「酋長」(メモ)

上村英明先住民族 「コロンブス」と闘う人びとの歴史と現在』(1992)からメモ。
1989年6月20日に放映されたNHKスペシャル立花隆の思索紀行・南米・失楽の500年』の第1回「アマゾン燃ゆ」の中で、「アマゾンで生活する先住民族のシャバンテ人を訪ねた」立花隆が「何度も「酋長」という言葉を繰り返し」、それに対して「北海道ウタリ協会」が「「少数・先住民族」に対する差別と偏見を助長する恐れがある、として抗議した」こと、立花隆は「酋長という言葉を使ったというだけで、無差別に攻撃するというのはおかしくないか」と反論したという(pp.234-235)。
また、


北海道ウタリ協会は、従来から「酋長」という言葉の使用をやめるよう訴えている。一九八二年に、利尻島観光協会が島内の奇岩を「酋長の岩」と命名し、当時の北海道知事が碑銘を書いたことが問題となり、協会の抗議で取り止めるという事件が起きた。この時以来、北海道ウタリ協会は「酋長」の代わりに「首長」、「村長」、「集落の長」などという表現をとるように再三申し入れてきた。しかし、この申し入れは、国内での先住民族の権利問題に関心が低いマス・メディアや研究者の間では、いまだに理解されていない。特に、民族学や人類学に携わる研究者や学者の多くがこの問題に無関心なのは残念だ。(p.237)
さらに、

(前略)フジテレビは、一九九二年二月二三日に放映した、ミクロネシア連邦ヤップ島の先住民族のルポに「老酋長グアヤンの伝説」という表題をつけた。
また一九九一年九月に岩波書店が地球環境保護をテーマに出版したジョナサン=ポリット編の『地球を救え』という本でも先住民族からのメッセージが紹介されたが、Chief Gary Pottsという人の詩を紹介してこの英語に「ゲーリー・ポッツ酋長」という訳を対応させた。(後略)(pp.237-238)
日本語において「酋長」という言葉が「未開」とか「野蛮」というイメージを喚起することはたしかだろう。しかしながら、どのようにして「酋長」という言葉が差別的な意味を賦与されてきたのかについての説明はない。因みに現代漢語では「酋長」というのは英語のchiefに対応する言葉として全く問題なく流通している。
その後に、「旧土人保護法」を巡って呉智英が「土人」という言葉を擁護した事件*1が採り上げられている(pp.238-240)。ただ「『朝日ジャーナル』誌上にある評論家からの投稿が掲載された」というふうに、〈匿名〉扱いである。これは何故だ?

フロイトなど

買った古本など。

Sigmund Freud『自叙・精神分析』(生松敬三訳)みすず書房、1975

Erich Fromm『フロイトの使命』(佐治守夫訳)みすず書房、1966(1959)
フロイトの使命 (1959年) (みすず・ぶっくす)

フロイトの使命 (1959年) (みすず・ぶっくす)

この2冊は某NPOのバザーで。
Peter Brook『殻を破る−−演劇的探究の40年』(高橋康也、高村忠明、岩崎徹訳)晶文社、1993
殻を破る―演劇的探究の40年

殻を破る―演劇的探究の40年

Guy Sorman『二十世紀を動かした思想家たち』(秋山康男訳)、1990
二十世紀を動かした思想家たち (新潮選書)

二十世紀を動かした思想家たち (新潮選書)

佐和隆光『文化としての技術 ソフト化社会の政治経済学』岩波書店、1987上田信『伝統中国 〈盆地〉〈宗族〉にみる明清時代』講談社、1995この4冊は地元の古書店で。
ブックオフで、大貫妙子さんの『Drawing』。
DRAWING

DRAWING