承前*1ということで。
永瀬ユキ「マルクス『共産党宣言』の問題・・・ドグマに捉われてはいけない」http://www.n-yuki.net/blog.php?itemid=494
この永瀬さんという方は存じ上げないが、先ず『共産党宣言』から3つの問題が提起されている。
1)「マルクスが自身の考えを「善」とし、他の思想家――特にプルードン――を徹底的に攻撃している」。そして、「この排他性が結局の所、左翼党派――実際の規模で言えば「グループ」と言った方がいいかも知れませんが――に異議を唱えれば「反革命」と攻撃されることの根源になっているものと思われます」
2)「ブルジョアジーとプロレタリアートの対立をむやみに煽っている」
3)「私自身はプルードンの「連合主義」に対して魅力を感じているし、現代の社会情勢で適用するのには妥当性があると考えています」
たしかに、
マルクスの
ルンペンプロレタリアート(最新流行の言葉では
アンダークラス*2か)に対する態度というのは
これはひどいといいたくなる
*3。また、
マルクスについての様々な伝記的な読み物を読んだ限りでは、
カール・マルクスって野郎は人格的・道徳的には最低のクズである
*4。勿論、そのクズであることもひっくるめて肯定して初めて、
マルクスの面白さが味わえるといえる。問題は、(常に
マルクスの尻拭いをしていた
エンゲルスを含む)
マルクス以降の左翼がクズであることを隠蔽し、あたかも彼が聖人君子であるかのような印象操作をしてきたことだろう。なので、例えば
マルクスの隠し子問題も当然隠蔽された。現代の聖人としての「
共産主義的人間」(
林達夫)!勿論、クズである
マルクスの方が昨今の道学者というか偽君子のような左翼よりましだということはいっておきたい。クズが書いたものだということを踏まえれば、
マルクスの罵倒は藝になっているのであり、罵倒藝として愉しむというのが正しい態度であろう。また、『
共産党宣言』というテクストの性質がある。「宣言」は片仮名を使えばマニュフェスト。つまり、選挙パンフレットみたいなテクストであるわけだ。それだったら、他党派への罵詈雑言は当たり前ということになる。また、そもそもクズに人間としての品位を求めてはならない。
2番目の問題については補足が必要だろう。永瀬さんは「実際の社会では、
ブルジョアジーと
プロレタリアートに分かれるかと言えばそうではなく、自営業者や農民など、ある意味では
ブルジョアジーであり、
プロレタリアートとも言える存在もあるのです」と書いている。それはそうなのだが、
マルクスが考えていたことは、資本主義が発展すると、「自営業者や農民など」は淘汰されて、資本家としてのし上がるか、それとも
プロレタリアートになるかのどちらかになるということ。
ブルジョアジーと
プロレタリアートがリーグ戦で勝ち残って、
日本シリーズ(革命)が起こるということになる。たしか
鹿島茂が『ルイ・
ボナパルトの
ブリュメール十八日』に言及しながら言っていたけれど、
マルクスというのは自分の贔屓の球団が
日本シリーズで巨人を倒すことを夢見るが故に結局は巨人を応援してしまう
パリーグ・ファンだということになる。さて、
日本シリーズはともかくとして、このことは
マルクスだけでなく、多くの(特に)経済学者が考えていた、そして今も考えていることだろうし、また少なからぬ人がこのことを事実だと実感しているのではないか。イオンのような大規模なモールによって商店街が淘汰されてしまったとか。勿論、そのような社会がいい社会かどうかは全く別問題であろうし、それを規範的に追求していくというのは問題外だろう。
3番目については、私にとっても
プルードンは魅力的だ。というか、20世紀最大の隠れ
プルードン・ファンはハンナ・
アレントだったのではないかとも思っている。
と、つらつら書いてきたが、このエントリーの最後は、
ぜひ読んで欲しいブログ記事があります。
◎右派や左派など意味なし!体制擁護派と体制批判派こそが存在している!・・・BLOG版「ヘンリー・オーツの独り言」
http://henrryd6.blog24.fc2.com/blog-entry-690.html
◎蓮池透×鈴木邦男トークショー(東京)・・・喜八ログ
http://kihachin.net/klog/archives/2009/07/talk090730.html以上のように、もはや右翼も左翼も無く、主張の中身こそ問わなければならないと思います。
と終わっている。
ありゃ!? これはコントだったの? 最後にみんなでどてっとこけるのがコントの定番だからだ。ということで、この永瀬さんのテクストを読むためには、先ず床に危険物が落ちていないかどうかを確認しなければならず、できれば受け身の練習もしておいた方がいい。
どてっ!