名付け親

承前*1

http://taraxacum.seesaa.net/article/124767962.html


池田大作エスニシティ問題はたんぽぽさんも取り上げてくださったのだが、そのコメント欄に「桜の木」という方が登場して曰く、


この話、コシミズが作り出した話だってどこかで暴露されてましたよ。

どっかの座談会の後の飲み会で、コシミズ自身が酔っ払って
「ソン・テジャクと命名したのは俺だ」って白状したそうですよ。

しかもこうも続けてましたって。
「このことを知っている学会幹部はいない」

そりゃ、自分で妄想を吐き散らかしているんで、そんなこと知ってる学会幹部はいないでしょうよ。あたりまえじゃん。

でも、これを鵜呑みにして信じている奴がいるってのが、信じられないんですよね。

ホント、世の中どうかしています。
Posted by 桜の木 at 2009年08月04日 09:19

まだ不確定なところが多い情報であるが、取り敢えず引用しておく。
リチャード・コシミズが原作者か。

木内/眞鍋問題(メモ)

承前*1

城内実側としては、問題の写真を撤去することで、取り敢えず丸く収めたいということなのだろうけど、一旦拡がった傷口はそう易々とは塞がらないようだ。城内実の「謝罪」が問題含みの代物であり*2、今回の彼の対応は危機管理能力の問題とともに、彼の人権感覚が改めて批判的に問い返される契機ともなってしまった*3。また、写真とともに問題となった「応援メッセージ」問題については、何も明らかになってはいない。城内実もこのことに関しては、(管見の限り)何も言及していない。
取り敢えず1つ引用;


ポスターに写真を使うにあたって、その手続きがどうだったとかいうのは枝葉末節で、本人がすぐに「関係ありません」って公言しちゃうような相手を自分の支持者に仕立てあげるなんて、単に「何かにつけて自分に都合良く物事を解釈する人」でしかないんじゃない?

例えるなら、一度食事しただけなのに「付き合ってます」って公言されちゃう、みたいな感じじゃないですか。まずヒくよね。うぇー、やめてくれ、って。そりゃ眞鍋さんも急いで否定するわな。いやまあ、たまたま中年男性と女性タレントって組み合わせだったから、ついついこういう連想をしちゃうわけだけれども。

「写真の掲載許可」についての事実関係がどうだったとしても、事実として自分を応援してくれてるわけでも何でもない有名人の顔をポスターに使っちゃうなんて、もうその時点ですでにダメすぎるでしょ。問題を捉える認識の枠組みがおかしいってば。
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20090803/1249312605

さらに事態を複雑にしているのが、2ちゃんねる系も含めてネット上に棲息している城内実シンパだろう。主君の傷口がさらに拡がってしまうことを知ってか知らずか、城内実の家来(「城内実後援会スタッフ」)が眞鍋かをり中傷ネタをネットに書き込んでいたことが明らかになっている*4。それ以外にも、中傷やら陰謀論が自らのシンパによって生産されていくのを、城内実本人及び側近は(原理的に言っても)コントロールできないだろう。そもそもそれは自業自得なのだが、城内実についつい同情してしまいそうにはなる。また、城内擁護/眞鍋批判言説がレイプ事件やセクハラ事件における加害者擁護言説*5と同型的な枠組を有しているという意見があることも記しておかなければならない*6
それにしても、

苦しまぎれの陰謀論は極端にハイリスクローリターン(ノーリターン・脳たりん?)であり、すでに充分傷ついた城内氏の評判に止めを刺すだけだ。私としてはべつに構わないけれど。
くだらない陰謀論を唱えるよりは、「選挙準備でストレスがたまり、つい判断ミスしてしまった」とか言って同情を引いたほうがマシだろう。優しい支援者がユンケルでも差し入れてくれるかもしれない。ファイト!いっぱーつ!(←それはリポビタン)
http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/42d4382ed6b688fbf4a4816189001097
座蒲団5枚! 『笑点』か。

饅頭怖い?

http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20090803/1249290618


「毒まんこ」が日本の名古屋で活動していた1980年代、英国ではスリッツ(The Slits*1というバンドがあった(というか、2005年に再結成されている)。ここでいうslitは日本語に訳せば〈割れ目〉で、勿論vaginaの言い換え。

大地の音

大地の音

さて、1980年代的には、「毒まんこ」から(例えば)デリダの毒=薬(pharmacon)の議論に持ち込んだりするべきなのだろうけど、勿論今そのような余裕はないのだが、ここでも「怖い」の両義性を介して、脱構築が生起していることは了解されるのではないか。
また、「毒」とは性質が違うかも知れないが、vagina dentata(歯のある膣[toothed vagina])という神話的モティーフは世界的に分布している。ところで、その日本語の解説(http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/vagina.html)はhttp://www.goddesscafe.com/yoni/dentata.htmlの翻訳のようであり、後者はBarbara Walker*2 The Woman's Encyclopedia of Myths and Secretsからの抜粋である。
それから、

初対面で訊かれてバンド名を告げると、「えっ、ど‥‥へぇ‥‥」とドン引きする人も当然いる。引かないでライブに来てくれる人と、二度と話しかけてこない人。「毒まんこ」という名が踏み絵の役割。

そういうことも関係していたかどうかわからないが、周囲では男性だけが性的な話題で盛り上がるということはあまりなかった。猥談や性的な自慢話や下卑た笑いや俗に言うイヤらしい視線があったとしても、「毒まんこ」という言葉の前には「で、それが何か?」みたいな感じになる。

これはバンド名のほかに、「男女混成バンド」ということと関係あるかも*3

私のまんこは私の体のオプションというだけだ。時々ちょっと鬱陶しい。着脱可能だったらいいのにね。

ちんこの持ち主は、そういうことを考えたことはないですか?

「ちんこ」の男性にとっての外在的な性格については、澁澤龍彦『玩物草紙』に収められた文章で言及されていたような気がする。そもそも男性の場合、その解剖学的な位置のために、より可視的であり、「鬱陶し」さは女性以上なのかも知れない。また、〈男性自身〉と俗称もされ、自らのアイデンティティにとって構成的である筈なのに、自らの意のままにならないということにおいても外在的*4
玩物草紙 (朝日文芸文庫)

玩物草紙 (朝日文芸文庫)

*1:http://www.theslits.co.uk/ See also http://en.wikipedia.org/wiki/The_Slits

*2:http://www.nownj.org/njNews/2005/0116%20humanist_profile-%20Barbara%20G.%20Walker.htm also http://en.wikipedia.org/wiki/Barbara_G._Walker

*3:See http://d.hatena.ne.jp/snakefinger/20090530/p1 also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090618/1245330417

*4:いざというときに自らの欲望に逆らって萎えてしまい、その都度パートナーの手や唇に助けてもらったことがある方も少なくないのでは?

これはコントか

承前*1ということで。

永瀬ユキ「マルクス共産党宣言』の問題・・・ドグマに捉われてはいけない」http://www.n-yuki.net/blog.php?itemid=494


この永瀬さんという方は存じ上げないが、先ず『共産党宣言』から3つの問題が提起されている。
1)「マルクスが自身の考えを「善」とし、他の思想家――特にプルードン――を徹底的に攻撃している」。そして、「この排他性が結局の所、左翼党派――実際の規模で言えば「グループ」と言った方がいいかも知れませんが――に異議を唱えれば「反革命」と攻撃されることの根源になっているものと思われます」
2)「ブルジョアジープロレタリアートの対立をむやみに煽っている」
3)「私自身はプルードンの「連合主義」に対して魅力を感じているし、現代の社会情勢で適用するのには妥当性があると考えています」

マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

たしかに、マルクスルンペンプロレタリアート(最新流行の言葉ではアンダークラス*2か)に対する態度というのはこれはひどいといいたくなる*3。また、マルクスについての様々な伝記的な読み物を読んだ限りでは、カール・マルクスって野郎は人格的・道徳的には最低のクズである*4。勿論、そのクズであることもひっくるめて肯定して初めて、マルクスの面白さが味わえるといえる。問題は、(常にマルクスの尻拭いをしていたエンゲルスを含む)マルクス以降の左翼がクズであることを隠蔽し、あたかも彼が聖人君子であるかのような印象操作をしてきたことだろう。なので、例えばマルクスの隠し子問題も当然隠蔽された。現代の聖人としての「共産主義的人間」(林達夫)!勿論、クズであるマルクスの方が昨今の道学者というか偽君子のような左翼よりましだということはいっておきたい。クズが書いたものだということを踏まえれば、マルクスの罵倒は藝になっているのであり、罵倒藝として愉しむというのが正しい態度であろう。また、『共産党宣言』というテクストの性質がある。「宣言」は片仮名を使えばマニュフェスト。つまり、選挙パンフレットみたいなテクストであるわけだ。それだったら、他党派への罵詈雑言は当たり前ということになる。また、そもそもクズに人間としての品位を求めてはならない。2番目の問題については補足が必要だろう。永瀬さんは「実際の社会では、ブルジョアジープロレタリアートに分かれるかと言えばそうではなく、自営業者や農民など、ある意味ではブルジョアジーであり、プロレタリアートとも言える存在もあるのです」と書いている。それはそうなのだが、マルクスが考えていたことは、資本主義が発展すると、「自営業者や農民など」は淘汰されて、資本家としてのし上がるか、それともプロレタリアートになるかのどちらかになるということ。ブルジョアジープロレタリアートがリーグ戦で勝ち残って、日本シリーズ(革命)が起こるということになる。たしか鹿島茂が『ルイ・ボナパルトブリュメール十八日』に言及しながら言っていたけれど、マルクスというのは自分の贔屓の球団が日本シリーズで巨人を倒すことを夢見るが故に結局は巨人を応援してしまうパリーグ・ファンだということになる。さて、日本シリーズはともかくとして、このことはマルクスだけでなく、多くの(特に)経済学者が考えていた、そして今も考えていることだろうし、また少なからぬ人がこのことを事実だと実感しているのではないか。イオンのような大規模なモールによって商店街が淘汰されてしまったとか。勿論、そのような社会がいい社会かどうかは全く別問題であろうし、それを規範的に追求していくというのは問題外だろう。
ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日 (岩波文庫 白 124-7)

ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日 (岩波文庫 白 124-7)

3番目については、私にとってもプルードンは魅力的だ。というか、20世紀最大の隠れプルードン・ファンはハンナ・アレントだったのではないかとも思っている。
と、つらつら書いてきたが、このエントリーの最後は、

ぜひ読んで欲しいブログ記事があります。
◎右派や左派など意味なし!体制擁護派と体制批判派こそが存在している!・・・BLOG版「ヘンリー・オーツの独り言」
http://henrryd6.blog24.fc2.com/blog-entry-690.html
蓮池透×鈴木邦男トークショー(東京)・・・喜八ログ
http://kihachin.net/klog/archives/2009/07/talk090730.html

以上のように、もはや右翼も左翼も無く、主張の中身こそ問わなければならないと思います。

と終わっている。
ありゃ!? これはコントだったの? 最後にみんなでどてっとこけるのがコントの定番だからだ。ということで、この永瀬さんのテクストを読むためには、先ず床に危険物が落ちていないかどうかを確認しなければならず、できれば受け身の練習もしておいた方がいい。
どてっ!

地上より永遠もとい、とんでもへ

ベルリン・天使の詩 デジタルニューマスター版 [DVD]

ベルリン・天使の詩 デジタルニューマスター版 [DVD]

http://anarchist.seesaa.net/article/122393545.html


何時の間にか、blogのタイトルが『反米嫌日戦線』から『反共嫌日戦線』に変わっている。共産党を批判するのは全くOKなのだが、「アグネス・チャンコロさん「児童ポルノは凶器、所持禁止を」 衆院法務委に参考人として出席」というタイトルで、自称anarchistがracistになってしまっていることは明らか。「児童ポルノ禁止法」「改正」*1反対論者に少なからぬレイシストが混じっていることは頭が痛い。
ただ、この自称穴空ストの振る舞いによって、レイシストの手口とその手口の誤りはよりクリアに可視化されたといえる。そもそもこの文脈に、国籍やら民族といったものを差し挟むこと自体が不適切或いはirrelevantなのだ。アグネスが言っていることが駄目なのは彼女のエスニックな帰属とは関係ない。内容や語り口が駄目なのであって、日本人が言おうが中国人が言おうがルワンダ人が言おうが、駄目なものは駄目だということだ。

因みに、『ベルリン・天使の詩』でニック・ケイヴが歌っていたのは、”From Her to Eternity”。
さて、


http://plaza.rakuten.co.jp/tatsmaki/


以前URLだけ掲げて、「コメントは差し控える」とだけコメントしたことがあったのだが*2、最近PledgeCrewさん*3が言及していたので、久しぶりに覗いてみた。たしかに支離滅裂なのだけれど、爬虫類というジョーカーがあれば、そんなのは問題ではないのだろう。ただ、これを読んで爽快感を得る奴というのも一定数はいるのだなとも思った。何しろ、自民党公明党民主党中国共産党も、そしてダライ・ラマもみんな爬虫類であるわけだから。それを熱湯浴風ナショナリズムのタレに漬け込んで、マルティチュード系左翼のスパイスを塗したという感じか。ところで、文体というかエクリチュールのリズム感からは新左翼臭さを感じる。どんな世代の奴が書いているのやら。

爬虫類といえば、数年前のマイクロソフトの広告キャンペーンは爬虫類だったが。

誠実の条件など

承前*1

池田光穂「他者の痛みと嘘つきのはじまり」http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/080428menti.html


曰く、


ヴィトゲンシュタイン(またはウィトゲンシュタイン)は『哲学探究』のなかで次のように書く。子供がケガをして泣いているのを見て、子供の痛みが泣き声を意味するというナンセンスなことを言わないだろう。そうではなく、反対に、子供に痛みがあるということを、子供の状況(=ケガをして血を流している)や泣き声やから判断しているのだと。われわれが〈痛み〉という経験を覚えるのも、泣いている子供に大人が語りかけて、子供が経験していることに言葉を与え、その後には文章を教えるだろう。子供は痛みを覚えたときにどのように振る舞うかを学ぶのであると。

われわれは他者の痛みがわかる(=ヴィトゲンシュタインは「知る」と表現)だろうか? 自分の痛みはわかる(でも、自分の痛みが「分かる」とはどういうことのなのだろうか?)。ちょうど子供が小さいときから学んできたように、どういう状態のときにそれが痛いのかわかり、痛い時にどのように振る舞うのか教えられてきたから、そうなのだろうか。そして実際に他者に的確に表現することもできるようだ。

ところが他者の痛みとなると、話はややこしくなる。他者が痛みに苦しむ時、われわれはたぶん「この人は痛いのだろう」と自分じしんの経験に照らして推測する。しかし「この人は痛いのだろう」という推測によって、他者の痛みがわかったということになるのだろうか。自分は同じ痛みを感じないため――もし感じたらそれは他者の痛みではなく自己の痛みにほかならない――ヴィトゲンシュタインが言うように「言語をもって痛みの表現と痛みとの間にはいることなど望みえ」ない。痛みと言語による表現の間に裂け目があったとは! いったい誰が想像しただろうか?

さらに彼は引き続き面白いことを言う。犬は痛がっているふりができない。だからと言って(文学的表現ではそのとおりなのですが)「犬は正直だ!」ということもナンセンスだ。痛みの言語表現をおこなうことと痛みの経験のあいだの裂け目があるからこそ人間は正しく?〈嘘〉をつくことができることになる。嘘は、子供が痛いことを他者に表現することを学ぶように、ことばを使うことにまつわるゲームであり、どこかでちゃんと学習される(=裂け目を知る)必要があるというのだ。

ヴィトゲンシュタインによれば、「嘘をつけない、あるいは他人が嘘をつくことを知らない人間は、無垢でもなんでもなくただの無能だということになる」。
また、デリダ(『言葉にのって』)曰く、

真実を話すためには、誠実であるためには、嘘をつくことができなければなりません。嘘をつくことができない存在なら、正直であることも誠実であることもできません。こうした可能性の概念は根本的なものです。このことは、虚言についてのアリストテレスプラトンのあいだの論争にもかかわってきます。プラトンにとっては、嘘をつく人とは、嘘をつくことができる人のことです。アリストテレスにとっては、嘘をつくことを決意している人のことです。できるという可能性はいつも存在していなければなりません。(略)人は真実を話すようプログラムされているとき、人は誠実であるとかどうとか言えないわけです。志向性重視の伝統を引き継ぎながら、カントは、私たちが正直で誠実であるようにおしすすめる役割をになっているのは、志向的な意志であると主張しています。たとえ、内在的なしかたで誠実さを検討する場合でも、つまり結果いかんを考慮せずに、したがって有用な嘘の概念*2と逆な形で誠実さを検討する場合でも、志向的な意志が問題となります。そしてそこにこそ、カントがその伝統の一部分に異議をさしはさんでいる点もあるわけです。真実を機械的なものにするような存在者の条件づけは、虚言の条件そのものである、意図性=志向性(intentionalite)の観念と矛盾するわけです。(pp.150-151)
これは、『法の力』で展開された決定不能性(決断不能性)と正義/自由/責任を巡る議論*3とも関連する。
言葉にのって―哲学的スナップショット (ちくま学芸文庫)

言葉にのって―哲学的スナップショット (ちくま学芸文庫)

法の力 (叢書・ウニベルシタス)

法の力 (叢書・ウニベルシタス)

ところで、池田氏曰く、

私は〈痛み〉は〈モノ〉でないことを、当の本人たちが知っているにも関わらず〈モノ〉のように言語的に表現されていることに興味をもつ。日本語の痛みが〈ある〉というのもそうだ。これに類似したものに〈嘘〉がある[→嘘問題*4]。「それは嘘だろう」という言及がそうだ。当然、物的証拠などに表象される「これが真実だ」「ここに真実が書かれている」という表現もそうだ。私はこのような痛みの物象化は、〈情動の物象化・モノ化〉であり、真偽、嘘と真実(本当)の物象化は、ある種の〈倫理・道徳の物象化・モノ化〉という別の系譜・系統の物象化・モノ化であると考えている。
これって、さらに一般的に言えば、抽象名詞の存立という問題? そういえば、古代希臘或いは羅馬的な想像力の(外から見て)凄いところは、そうした抽象名詞の多くが擬人化され、神様になっているところか。

BC Goes to 平壌

承前*1

MARK LANDLER and PETER BAKER “Bill Clinton in North Korea to Seek Release of U.S. Reporters” http://www.nytimes.com/2009/08/05/world/asia/05korea.html


曰く、


Former President Bill Clinton went to North Korea on Monday to negotiate the release of two American television journalists who were sentenced to 12 years of hard labor for illegally entering North Korean territory, a person who was briefed on the mission said.


Mr. Clinton landed in Pyongyang, the North Korean capital, early Tuesday morning local time, Central TV, a North Korean station, reported. The White House declined to comment.


Mr. Clinton is the first former American president to travel to North Korea since 1994, when Jimmy Carter went to Pyongyang — with Mr. Clinton’s half-hearted blessing — to try to strike a deal to suspend the North’s nuclear work in return for concessions from the United States. Ultimately that led to the 1994 nuclear accord, which froze North Korea’s production of plutonium until the deal fell apart in 2003.
某英語の情報誌に西洋人向けの北朝鮮マス・ゲーム参観ツアーの広告が出ていた。米国市民大歓迎とか家族連れ割引ありとか。北朝鮮の火遊びという神風が選挙で自民党の追い風になるという可能性はないだろう。8月から9月にかけては、北朝鮮ではマス・ゲームの季節であり、年のうちでも数少ない合法的に外貨を獲得するチャンスなので、火遊びをする暇はなく、従って神風は吹かない。