エスノメソドロジー?

 杉田貴行
 「対人援助としてのスクールソーシャルワークの視点とカウンセリングの視点からの比較」
http://www.wel.ne.jp/wf21/researchpaper2.html

 タイトルを読んだだけで、目がくらくらしますね。学生さんのアヴァンギャルドな日本語を読みこなさなければいけない大学の先生のご苦労というか語学力というのは大変なものだと思いますが、とにかく日本語が壊れているというかアヴァンギャルドな日本語のテクスト。とはいっても、この方は学生さんではなくて、〈先生〉の側で、しかも難関の国家資格である「社会福祉士」に合格した方。
 まずは、「面接」とはいっても、〈科学〉に属する「調査」とテクノロジーというかサーヴィス或いは実践に属する「カウンセリング」が同一のレヴェルで言及され、しかも屡々混同されているというのが凄いのだけれど、さらに〈不意討ち的〉なエクリチュールのスタイルも凄い。例えば、「面接内容に関する会話分析的視点」という節の冒頭の1パラグラフを引用してみる;


 社会学においては、面接での内容を会話分析することで、探究する手段がとられるが、その中でも「エスノメソドロジー」は、現象学的社会学と並んで、現代社会学の最も重要な流れだと言える。難解といわれてきたエスノメソドロジーの理論とそのユニークな方法である「会話分析」をかみくだいて理解すれば、進路相談という面接場面の理解のみならず、障害者・被差別部落女性差別・暴力をトピックとするインタビュー・会話録・討論会・テレビドキュメンタリーの会話分析を実践することが可能となる。状況外在的な常識的判断、価値、評価、科学的概念使用などを重要視しないエスノメソドロジー的無関心という手続きは、いったいどのような意味をもった実践なのであろうか。対象とする現象の適切さや妥当性など、いっさいの意味を括弧にいれる方法的要請なのか。人が他者とともにつくりあげる現実である排除や差別という現象に、はたして本当にそうした手続きが可能なのか。実験室的な状況を想定した面接場面なら、それも可能かもしれない。しかし、人々が現実に暮らしている日常というローカルな場、学校での進路相談という面接場面におりたつとき、エスノメソドロジストであろうとなかろうと、中立的な人間でいられるはずはないだろう。人々の語りに驚き、感動し、さまざまな「方法」を直接的に把握するとき、エスノメソドロジー的無関心という手続きをいとも簡単にのりこえ、ローカルな進路相談という現場にさらされていく。それでも、エスノメソドロジストは中立的な人間でいられるのだろうか。エスノメソドロジーとは何であるのか。社会学を革新いていく方法的手続きという位置づけをこえて、面接者の日常までも巻きこんだ知的な営みとして、エスノメソドロジーを構想できないだろうか。こうした問いが筆者をここでの日常の進路相談という面接場面での生徒とのやりとりに関する論考へと深めるのである。
今引用した部分の内容的な妥当性は云々しない。ともかくエクリチュールを味わっていただくべく、試食用として引用した次第だからだ。以下、言説分析でも試みようと思ったのだけれど、その気力は失せました。というか、眠くなった。是非、自らご賞味あれ。
 一応、社会理論において、悪意の批判・非難よりも好意の誤解・無理解に如何にして向き合ってゆくのかが問題になる云々というオチは用意していたのですが、眠いですね。

クリスマス・ソング

 12月21日夜、寒風吹き荒ぶ中、日本人街ともいわれる古北地区へ行く。あまりに寒いので、またエアコンも図体がでかいだけであまり暖かくはないので、ハロゲン・ヒーターを買いにいくため。最初、「フクゼン」へ行って、そこで買ってしまったのだが、これは事後的に考えればとんでもないことで、歩いて数分のカルフール(家楽福)には、さらに安くパワーも強力なものが沢山あったのだ。事実、カルフールであと1、2台買い足そうと思ったのだが、荷物があまりに多くて、今回は断念。さて、「フクゼン」という店の目玉は、日本のTV番組を録画したDVD/CD-Rと日本語の古本ということになるのか。それにしても、日本人技術者が帰国時に置いていったと思しき『化学辞典』全3巻なんて、誰が買うんだ。
で、「避風塘」*1で食事をしたのだが、店内ではTVモニターで、アメリカ製作と思しきクリスマス・ソングのヴィデオを流し続けている。「避風塘」というのは、〈香港漁民風〉をウリにしている店で、ウェイトレスはみな華南漁民風のユニフォームを着ているのだが、それとモニターに映っている西洋人とのコントラストは既に〈笑える〉という域に達していた。妻はクリスマスというのにあまり馴染めないという。それは子供時代のクリスマスの思い出というのがないからということで、今や世界中ムスリム仏教徒もクリスマスを脱宗教化された消費文化のイヴェントとしてやっているということはあるのだが、妻の子供時代の1970年代の中国ではそのような仕方でクリスマスをやるというのはなかった。というか、そのようなクリスマスが中国に導入されたのは1990年代に入ってからだろう。それだけにとどまらず、妻は、ヴィデオの画面の西洋人*2の子どもたちの作りすぎた表情が文革時代の〈毛沢東賛歌〉や北朝鮮の〈将軍様〉を讃える子どもたちと同じノリだと非難し、さらには西洋人が春節をやるわけでもないのに中国人がクリスマスをやるというのは〈文化殖民地主義〉だとまで言い出す。それは別に不当な説ではないので、私としてはただただ頷くのみ。それはともかく、”We wish you a merry Christmas”とか”Jingle Bell”とか数曲入りのヴィデオをループさせているので、1時間食事をしていれば、10回近くも同じ曲ばかり聴かされるので、それは誰でもうんざりはする。

*1:そもそも香港起源だが、上海には「避風塘」を名乗る店は幾つかの系統があって、それぞれが正統性(authenticity)を争っているらしい。

*2:マルティカルチュアリズムを反映してか、黒人の子どもも加わっている。

Troubles

 12月22日朝、上海交通大学裏の公安局派出所に行って、居留届けを出す。といっても、日本のように〈外国人登録証〉をくれるわけではない。ただ、申請書の複写をくれるだけ。〈安全の栞〉的な紙ももらう。泥棒に注意しましょうとかそんな感じの。そこには、「上海は世界で最も安全な都市のひとつ」ということが書いてある。
 ケイト・ブッシュAerielの2枚目である”A Sky of Honey”をCDプレイヤーに入れるが、認識しない。NO DISK。仕方がないので、DVDプレイヤーで聴く。これが第1のトラブル。今せっせと論文を書いているのだが、WORDが文書を保存しようとしても全く反応しなくなる。というか、ツール・バーが、ツール・バーだけが麻痺しているのだ。仕方がないので、機械自体を再起動させることにする。約400字、原稿用紙1枚分のテクストを喪失。再起動させると、ブラウザのOperaも再度立ち上げなければならないのだが、何度やっても「問題が起きたので、終了します」。取り敢えず、IEを動かして、Operaをダウンロードして、今まで使っていたのを上書きするかたちでインストールして、一応の解決。
 楽しみにしていた某クリスマス・パーティ(聖誕派對)が参加希望者が少ないので、中止とのこと。これもトラブルといえるか。
 夕方は淮海中路まで歩いて、「上海図書館」のカードを作る。

二階建てバス

 侯孝賢監督は地下鉄が嫌いだという。だから、『珈琲時光』は東京の鉄道を巡る映画であるのに、JRお茶の水駅のホームから眺められた丸の内線以外は、地下鉄は登場しなかった。
 上海に限らず、都市の内部を巡る交通機関としては、路線バスに如くものはないといえる。勿論、いつ渋滞に巻き込まれるかわからず、そのため、ビジネス向きとしては不可ということはあるかもしれない。但し、時間的な効率ということには反しているかもしれないが、どこの都市でも路線バスというのは意外な迂回路を採ることが多いので、意外な風景に遭遇するというお楽しみがある。その上、上海では経済的なお得感がある。どこまで乗っても2元で済むのだから。
 さて、


 長く淮海路から虹橋地区を結んでいた「911番」の2階建てバスが、ついに全車廃車されることになった。2006年1月からVOLVO型の空調バスに置き換えられる。
 この「911番」のバスは、1993年に運行が開始され、上海で始めての2階建てバス路線として、注目を集めた。バスの2階から見る景色は新鮮で、座席数も多いので人気だった。その後、車両の改良が進められ、現在投入されているバスのほとんどは2000年製で、まだ5年ほどしか運用されていない。
 しかし、淮海路沿線の交通量が激増し、体積の大きい2階建てバスは渋滞の元凶になっていた。また騒音など環境に関しても基準のクリアが難しい。そこで、巴士集団では46台全車の廃車を決定した。
 上海市内には現在258台の2階建てバスが運用されている。しかし、ニーズの変化から徐々に廃止されていく見込みで、事故などのトラブルが頻発している909番バスに関しても更新を進めていく。
 上海の街から2両連結バスが廃止されて久しいが、2階建てバスも街の風景から消えることは、なにか寂しい。
http://www.explore.ne.jp/news/article.php3?n=1927&r=sh


ということだ。
 記事では、「バスの2階から見る景色は新鮮で」とあるが、私にいわせれば〈スリリング〉である。直前を走っていたちゃりんこ、踏みつぶされたんじゃないかとか。
 上でいう「2両連結バス」も中国的風景のひとつではあったけれども、市の中心部ではとっくの昔に禁止された(When?)輪タクは、少し西側に行けば、今でも現役として活躍している。
 ところで、同じサイトのニュースだけれど、


 上海人の食の多様化に伴い、アルコールの趣向も変化してきている。
 12月19日に開催された上海市醸酒専業協会主催の「2005年上海国際酒飲博覧会」で、上海市のぶどう酒の消費量が、中国の伝統的な白酒の消費量を抜いたことが明らかになった。
 上海市の本年度の酒類の消費量は120万キロリットルで、過去最高を記録した。このうちビールの消費量は100万キロリットル、黄酒(紹興酒)の消費量は18万キロリットル、ぶどう酒の消費量は5万キロリットル、白酒の消費量は4万キロリットルとなっている。
また、ぶどう酒は中国に200品目ほどあるが、そのうち150品目は海外からの輸入品となっている。
http://www.explore.ne.jp/news/article.php3?n=1926&r=sh
どう考えても、計算が合わない。

寛? 細?

 昨日、昼飯は蘭州拉麺だった。目の前で職人が麺を手打ちしてくれるものだが、値段の方は「牛肉拉麺」が9元と、はっきり言って安い。勿論、ちゃんと腹も膨れる。
 さて、「牛肉拉麺」というと、店の人がグァン麺、還是シー麺?という。一瞬、耳が点になってしまい、「グァン」については、関とか光とか廣といった漢字が頭の中を駆けめぐる。そのうち、「シー」については、細という字が浮かんできて、麺の太さを訊いているのかと思いつき、そして、「グァン」のことは一瞬忘れてしまい、つい日本語の感覚で、「太!」と言ってしまった。店の人は???という表情。ようやく、「太」という字が〈ふとい〉という意味を持つのは日本語においてであって、中国語では〈はなはだ〉という意味なのだということを思い出す。そして、寛という字が浮かんできて、broadbandも「寛帯」だったなとか思い、「寛的!」といい、「明白了!」。
 因みに、関はguan、光や廣はguang(それぞれ声調は異なる)、寛はkuanです。
 味? それなりによかった。牛肉の染み込み具合があっさりすぎずしつこすぎずで。
 「港匯廣場」の裏。