谷崎由依「国際友誼」(in 『鏡のなかのアジア』*1、pp.79-150)から。
純粋言語、いやむしろ原*2言語と呼ぶべきか。
鍋を運び酒を運び、中身の減った鍋を台所へ戻してふたたび中身を補充して、二階と一階の行き来を何度か繰りかえしたあとでやっと、男子学生は焼酎に水を入れて飲んでいた。今朝の着想を反芻していた。
これはもしかしたら巨大な投企の先触れとなるのではないか。
hilariousとひらり。
atrociousとおとろっしゃ。
このようにして各単語につき、語感も意味も類似した訳語をあてていくことができれば、原文と極めてよく似た発音かつ、意味的にもその訳でありうるような文章を作ることができる。それは一方は英語、一方は日本語でありながら、発音も意味もほぼおなじ、つまり少なくとも音の上では、英語でありながら日本語でもあるという、そのような文を作成することが可能なのではないか!?
エスペラントなど目ではない。
これこそ無敵の言語である。(p.135)
彼はいましがたの会話を思い出していた。大学院で比較言語学を専攻する先輩が来ているのを見つけたので、男子学生は原言語についての着想を打ち明けた。おずおずと、注意深く、けれど最後には興奮し、壮大な計画について滔々と述べたてた。
先輩は頷きながら、次第に眉根を寄せながら、彼の言葉をひとつひとつ聞いた。先輩の難しい顔は、男子学生の着想によってその思考が活発になっていることを意味していた――と、男子学生には思われた。だが彼が口を閉じたとき、先輩はひとことこう言った。
――それって……、ただの駄洒落なんじゃないの。(p.140)