「写真」の変容(メモ)

白昼夢「写真とSNSの不健全な関係」https://filmmer.hatenablog.com/entry/2024/03/23/202109


SNS時代における「写真」の意味の変容を巡って。
以下、切り貼りしてみる。


面白い写真を撮る人は変わらず一定数いるけれどSNSに流れてくる写真はあまり面白くない。SNSには夥しい数の自称写真家やPHOTOGRAPHERが溢れているにも関わらず。

写真家の数と反比例するように写真がとても退屈になっているのはなぜだろう?写真の楽しみや価値がSNS上の評価にすり替えられてしまっているのではないだろうか?という疑問だ。


過去を30年分くらい振り返ってみると、ネット以前の世界では家族や友達のようなごく狭いコミュニティの思い出を記録しておくことや旅行先の風景を撮ることが写真の役割だったし、それらを撮った写真はプリントされてコミュニティの中で共有されてきた。

作家性の強い人たちや上手な人はもちろんいたけど、過剰な演出も映えもなく総じて気軽なメディアだったし撮ってから友達と共有し引き出しの奥やアルバムに仕舞われるまで1-2ヶ月かかるのが普通だった。そして写真は定期的に振り返られた。

2000年頃からデジタルカメラとネットの普及によりflickrや500pxのような写真発表の場が生まれ、写真流通の場は次第にTwitterInstagramのようなSNSに移っていくのだが、SNSを提供する企業が持つ大きな問題は人々の孤独や不安と射倖心に目をつけていたことだった。気付かぬうちに私たちは「何者かにならなければならない不安」と「他者からの評価の渇望」に絡め取られてしまったのだ。

かつて数ヶ月かかって消費された写真は1-2日程度まで賞味期限が短い生モノになり、SNSの住民にウケなかった写真は顧みられることもなくゴミのように消えていく。気軽なメディアだった写真は自己実現の手段に変わってしまったのだ。何でもいいから自己実現したい人が手っ取り早く飛びつくツールに変容してしまったと言ってもいいかもしれない。

自己実現」という言葉が鍵になるのか。この言葉が遅くとも1980年代以降、現在に至るまでどのような含意で使用されてきたのかというのは重要なテーマではある。また、この方の指摘だと、「他者からの評価」という場合の「他者」が「友達」のような具体的でオーセンティックな「他者」から「SNSの住民」というような抽象的な「他者」に摩り替ってしまっているということになるだろうか。まあ、ポジティヴにせよネガティヴにせよ、抽象的な「他者」に「評価」されるような「自己」というのも、真正性を欠いた抽象的な「自己」でしかあり得ないのだけど。
私もSNSに写真をアップロードし続けているけれど、blogも含めて公開の備忘録にすぎない。「他者」なんて関係ないよ、なのだけど、「他者からの評価」を全く期待していないかというと、嘘にはなる。