「観察」は可能か?

承前*1

Eテレ『スイッチインタビュー』。アナウンサーの小倉智昭氏とテラワーダ仏教僧のアルボムッレ・スマナサーラ師との対談。
「瞑想」を巡って;


小倉:例えば、瞑想とかで「無になる」と言いますよね。修行の世界ではそういうことも学んでいくんですか。

スマナサーラ:瞑想を始めた瞬間に、我々は無になることを教えるんです。こんなことをしたら無になりますよと。「無」というか「空(くう)」というんですね。なってから観察して下さいと。

小倉:簡単になれますか。

スマナサーラ:すごい簡単です。

小倉:僕、「目をつぶって瞑想しなさい。無になりなさい」って言われても、いろんなことが頭に浮かんできて、なかなかできないと思うんですよ、僕の性格から言うと。

スマナサーラ:伝統的に思われている瞑想は、”仏教の瞑想”じゃないんです。”仏教の瞑想”は、“observation=観察”なんです。観察する時は、思考が邪魔なんです。

小倉:観察する時は、思考が邪魔。

スマナサーラ:だから思考をやめて、観察する。
https://www.nhk.jp/p/switch-int/ts/K7Y4X59JG7/blog/bl/peZjvLyGze/bp/pZmeygOw6Z/

たしかに「観察する時は、思考が邪魔」。ここで、過去の、しかも自分のとは限らない、或いは誰が考えたのかも分からないような「思考」(の痕跡)を考えてみる。そのような「思考」が現在の「観察」を「邪魔」し、或いは歪めるというのは当然だ。しかし、そのような「思考」があるからこそ、「観察」が可能になっているということもある。空を見上げて星を「観察」しようとしても、見つめているのが「星」であることを知っていなければ星の「観察」は成立しない。知らなければたんなる光の刺戟にすぎない。所謂先行的判断=偏見(prejudice)の問題。