「技術」としての「丁寧」

平松洋子「「丁寧」のゆくえ」(in 『いわしバターを自分で』*1、pp.174-176)


「中国北部の郷土料理を出す店」の「白菜の黒酢炒め」(p.174)。白菜を炒める前に「熱い湯でゆがいて」あった(p/175)。


(前略)脳裏に浮かんだのは「暮しの手帖*2のこと。
二〇二〇年二―三月号の表紙に、「丁寧な暮らしでなくても」と宣言している。新編集長の北川史織さんは、巻末にこう書く。
「丁寧であれ雑であれ、自分や他人の暮らしにそんなラベリングをしたくなる風潮って、なんだか不思議だと思いませんか」
暮しの手帖」の編集に携わりながら、「丁寧な暮らし」というひと括りに違和感を抱いてきたとも吐露している。
いっぽう、これを揶揄する声もある。生活の細部を取り扱う「暮しの手帖」なのだかから、「丁寧ではなくても」と旗を揚げるのは自己矛盾だろう、むしろ隘路にはまりこんでいる、と。
私は、そうは思わない。「丁寧」という言葉を呪縛として捉えれば、なにやら精神的な圧力が働いてややこしくなる。けれども、「丁寧」を”役に立つ技術”だと置き直してみれば、採択の自由はこっちにあるという気になれるのではないかしら。
湯通しのひと手間は、面倒と思えばやっかいなもの。しかし、しゃきしゃきの超うまい白菜炒めを知ってしまうと、あらかじめ湯通しするひと手間は技術や手段に変わる。最終地点は食い意地の解決だと考えると、「丁寧」の呪縛が解けてずいぶん気が楽になると思うのだが、どうだろうか。(p.176)