「外苑」を巡って

承前*1

森本智之「「1本ずつに歴史、代えは利かない」 神宮外苑樹木伐採に石川幹子中央大教授が異議 多くは国民の献木」https://www.tokyo-np.co.jp/article/163087


1000本近くの樹木が伐採されることになる神宮外苑の再開発計画に関する、石川幹子さんへの外苑現地でのインタヴュー記事。


「すごく元気でしょう。ほとんどが樹齢100年以上。『100年以上もある』じゃない」。再開発エリアの一角は、大人2人が両手を伸ばしてやっと囲えるくらいの太い幹の木がいくつも空に伸びていた。石川さんの調査では多くが伐採される懸念がある。
 外苑は、内苑ないえんと一体で1926(大正15)年に整備された。ともに、明治以降の都市化の波に逆らうように、造園学者らが100年後を思い描いて緑をつくった。だがそれぞれの構想は真逆という。内苑は自然の力で成長する「人の入らない森」を目指し、外苑は「人々が集う庭園」を意図した。

 造営当時、敷地の中心の芝生広場を囲うように疎林を配し、さらにその周辺に森を築いた。外に向かって濃くなる「緑のグラデーション」だ。イチョウスダジイシラカシ、ヒマラヤスギ、ケヤキアカマツ…。どこにどんな木を植えるかも意図がある。「桂離宮や後楽園で『ビルを建てるから木を切るけど新しく植えるから』と言われて納得する人がいるでしょうか」と批判する。


話を聞いた場所は疎林の外の小さな森の一つ。葉の落ちない常緑樹と落葉樹を一緒に植え、冬場でも光が差し込む。人が散策することを想定しているからだ。春のような日差しのこの日、上着を脱いでベンチに腰掛ける人がいた。
 こうした巨木の多くは全国から寄付された木の可能性が高い。人工の森を作る前代未聞の巨大プロジェクト。内苑・外苑の造営に当たっては全国から多くの献木が寄せられた。当時の資料によると、ある男性は年金でマツを購入した。地域の名木が送り出されたケースもあったという。遠くはサハリン(樺太)から。鉄道会社は運送費を半額にして支援した。「1本1本に物語があり寄付した木はまだ生きている」
 戦争では外苑内の施設も被災したが、石川氏が見せてくれた戦後間もない時期の航空写真によると、樹木は戦火を免れている。だがこうした木が切られる可能性がある。
 石川氏は「外苑は日本の近代を代表する文化的遺産。それも、過去のものではなく、いまも多くの人々に、日常的に愛されている」と重要性を指摘する。100年前の造園家や献木した市民を思えば「若い木を植えて数を満足させればいいという問題にはならない」と述べた。