昭和30年代



白クマ


確か朝日訴訟の被告(国)側弁護人が「日本のチベットと言われる岩手県」って発言してませんでしたっけ?ウロ覚えですが。

朝日訴訟*1ですか! というか、争点とか判決とかはともかく、「弁護人」の発言のディテイルとかは知りませんでした。
朝日訴訟」について、『しんぶん赤旗』の記事を貼っておきます;

2004年7月21日(水)「しんぶん赤旗

朝日訴訟」とは、どんな裁判だった?


 〈問い〉 憲法25条の意味を問いかけた「朝日訴訟」とは、どんな裁判だったのですか。(福岡・一読者)

 〈答え〉 1957年、国立岡山療養所で結核の加療中だった朝日茂さん(1913~64年)が生存権の保障を求めて起こした裁判です。

 朝日さんは、生活保護法に基づく医療扶助、生活扶助を受けていました。ところが、社会福祉事務所は、見つけ出した実兄に仕送りをさせ、仕送りの月1500円から日用品費として月600円だけを本人に渡し、残りを医療費の一部自己負担としてとりあげました。当時、生活保護の日用品費は月600円で、それはシャツは2年に1枚、パンツは年に1枚でいいという基準でした。

 「そんなばかなことがあるか」と、日本共産党員でもあった朝日さんは、東京地裁へ「この基準は、健康で文化的な生活の保障(生存権)を定めた憲法25条に違反する」と、生活保護処分に関する裁決取消訴訟を起こしたのです。

 この裁判は、人間に値する生活とは何かを問い直す「人間裁判」と呼ばれ、支援の輪が広がり、「朝日訴訟を勝ちぬく列島縦断大行進」が3回もおこなわれました。

 1960年、東京地裁は、憲法25条の「健康で文化的な生活」は、国民の権利であり、国は国民に具体的に保障する義務があること、それは予算の有無によって決められるのではなく、むしろこれを指導支配しなければならない、と判決しました。

 しかし、第2審は、最低限度の生活水準は、固定的なものではなく多数の不確定要素を総合して考えなくてはならず、結局、本件保護基準は「すこぶる低額」ではあるが違法とまでは断定できないと、逆転判決。その後、上告しますが、朝日さんが死亡したため、反動的な判決をもって結審します。

 朝日訴訟は、その後の社会保障のたたかいに大きな影響を与えました。昨年、生誕90年を機に朝日さんの手記『人間裁判』が再版されました。(喜)

 〔2004・7・21(水)〕
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-07-21/0721faq.html

See also


なおき@学び直し「朝日訴訟とは何か?意義や争点は?この記事一つで理解できる!」https://note.com/kotobakaisetsu/n/nc9995df184a7
鈴木勉「社会保障裁判の先駆としての朝日訴訟」『ノーマライゼーション 障害者の福祉』395、2014 https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n395/n395001.html


朝日訴訟」が始まったのは1957年。第一審判決が1960年。第二審(控訴審)判決が1963年。原告、朝日茂の死が1964年。昭和30年代の出来事。その頃既に「日本のチベット」という表現があったわけですね。30年代のことは直接わかりませんが、私も子ども時代にそういうクリーシェを聴いたことがあります。昭和でいうと40年代ですけど。なので、昭和30年代にあっても不思議はないなと納得しました。
さて、21世紀において、「チベット」という言葉はより身近なものになっている。まあ、それは中沢新一ダライ・ラマ14世中国共産党のおかげであるわけですが(笑)。昭和30年代における「チベット」の知名度はどんなものだったのだろうか。1959年にチベット動乱があって、最晩年の柳宗悦が「中国のチベット侵略と、日本の社会主義者の姿勢につき日記で批判」したとのことですが(中見真理柳宗悦*2p.13)、一般大衆の反応はどんなものだったのか。或いは、1945年に亡くなった河口慧海*3はその頃、どの程度知られていたのか? また、かつてチベットに滞在しチベット仏教の修行をしたことがあった多田等観*4は昭和30年代にはまだ存命だったわけですけど、その一般的な知名度はどんなものだったのだろうか。