「マイナー」(メモ)

残響の中国哲学―言語と政治

残響の中国哲学―言語と政治

承前*1

中島隆博『残響の中国哲学』「はじめに」に曰く、


以上から、この書物を『残響の中国哲学――言語と政治』と名づけたゆえんもまた、おわかりいただけるだろう。それは二つの交錯した思いからであった。
一つは、中国哲学という、近代におけるその誕生の瞬間から哲学としての資格を疑われ、現在の日本においてはもはやその命運も尽きたかに見えるキメラ的な学への愛惜である。残響においてしか存在しないかのような中国哲学であっても、いやそうであるからこそ、残響のなかに見捨てたままにしてはならない。残響のなかに置くことは、それ自体が、哲学の政治的な挙措にほかならないからだ。
もう一つは、その中国哲学が、言語の支配という政治を夢見ることによって、未聞の他者の声である弱い声をかき消してきたことへの警戒である。中国哲学は決して素朴なものではない。その哲学的な問題系の一つである、伝達可能性を保証する公共空間において、弱い声はあらかじめ排除されている。その排除の構造を問いながら、如何にして弱い声に耳を傾けるのかが問われなければならない。それは、中国哲学のなかにある微かな残響を聞き取ることである。
残響のなかの中国哲学中国哲学における残響。わたしたちは両の耳で別々の音を聞き取らねばならない。聞こうとしているのは、耳の体制を変更することではじめて聞こえてくる残響である。その残響においてはじめて、中国哲学はマイナーな人々のための、マイナーな哲学に変貌することだろう。(pp.viii-ix)
最後に出てくる「マイナー」という言葉がちょっとわからなかった。読み進めると、第2部の終わり、胡適を論じた「古文、白話そして歴史」の終わりに、

(略)「中国」を自己同定のプロセスから解き放ち、より開かれた伝達の空間とすることはできないのだろうか。文学や哲学を、我有化を離れて、他者に開かれたものにはできないのだろうか。もしそのような「中国」という伝達空間の未来が到来することがあれば、「中国哲学」や「中国文学」そして「中国」は、ジル・ドゥルーズ(一九二九−九五年)が述べたように、「どうしようもなくマイナーな」人々とその場所の名と化すことだろう。(p.160)
そして、註では、ドゥルーズガタリ『哲学とは何か』から、「なぜなら、芸術あるいは哲学が呼び求めるような人種は、純粋だと主張される人種ではなく、ある虐げられた、雑種の、劣った、アナーキーな、ノマド的な、どうしようもなくマイナーな人種だからである――カントによって新たな《批判》から締めだされたあの者たち……」という一節が引かれている(p.249)。