「アカ」と「クラ」(メモ)

永井均『子どものための哲学対話』*1からのメモ。


ペネトレ:「ネアカ」と「ネクラ」って言葉、知ってる?
ぼく:聞いたことはあるけど、意味はわからない。
ペネトレ:ネアカっていうのは、根が明るいってことで、ネクラっていうのは根が暗いってことなんだよ。表面的な明るさや暗さじゃないよ*2。根だよ。根が明るいってことがだいじなんだ。根が明るい人っていうのはね、いつも自分の中では遊んでいる人ってことだよ。勉強しているときも、仕事をしているときも、なにか目標のために努力しているときも、なぜかいつもそのこと自体が楽しい人だな。
ぼく:たったひとりのときでも?
ペネトレ:そうだよ。根が明るいっていうのはね、なぜだか、根本的に、自分自身で満ちたりているってことなんだ。なんいも意味のあることをしていなくても、ほかのだれにも認めてもらわなくても、ただ存在しているだけで満ちたりているってことなんだよ。それが上品ってことでもあるんだよ。根が暗いっていうのはその逆でね、なにか意味のあることをしたり、ほかのだれかに認めてもらわなくては、満たされない人のことなんだ。それが下品ってことさ。(→第2章―6)。
ぼく:つまり、いい人か悪い人かってこと?
ペネトレ:ちがうよ。いい人か悪い人かなんて、そうたいした区別じゃないさ。すこしましな区別はね、ちゃんとした人かどうしようもないやつかっていう区別だな。(→第2章―9)これは育ちの問題だ。でも、もっとだいじなのは、根が明るいか暗いかだね。これは生まれの問題なんだ。
ぼく:生まれって、どういうこと?
ペネトレ:生まれっていっても、家柄や血筋のことじゃないよ。どういうわけかたまたま、生まれつきそういう人間だったってことさ。
ぼく:生まれつきなら、生まれちゃってからあとでは、もうどうしようもないじゃん?
ペネトレ:それがそうでもないんだな。ぼくの言うことを聞いていればね。(pp.22-24)
また、

ぼく:根が明るくて上品な人が、自分の遊びのために他人をひどい目にあわせるってことだって、やっぱりあるんじゃないかな?
ペネトレ:あなりないけど、でも絶対ないとは言えない。上品な人は道徳的な善悪なんてたいして重視しないから、けっこう平気で悪いとされていることができるからね。逆に、下品な人は、道徳的な善悪を重視しがちだな。
ぼく:どうして?
ペネトレ:自分の外側にしか、たよるものがないからさ。
ぼく:それなら、上品な人は、絶対ではないとしても、あまり悪いことをしないというのはなぜなのさ?
ペネトレ:たとえば、お父さんがきみに将棋を教えてくれたとするよ。ところが、きみは将棋なんかちっともおもしろくない。そこでお父さんは、きみが将棋で勝てば、そのたびにおこづかいをくれることにする。きみは、おいこづかいほしさで将棋に強くなろうと努力するだろうね。そうしているうちに、だんだん将棋そのものが楽しくなってくるんだ。おこづかいほしさで将棋をやっているときは、インチキをしても勝ちたいと思うだろうね。お父さんがトイレに行っているすきに駒を動かしちゃうとかね。でも、将棋そのものが楽しくなってくると、そんなことはしなくなるだろうな。勝つという結果がだいじなんじゃなくて、勝とうとしながら将棋をするという過程自体がだいじになってくるからね。それが将棋が遊びになったってことなんだよ。人生が遊びになるっていうのも、それと同じことさ。ただ、人生は将棋のように規則だけでできているわけじゃないから、その点がちがうけどね。でも、達成される目標じゃなくて、過程そのものを味わえるようになるって点ではおなじだな。それが、人生が遊びである人があまり悪いことをしない理由だな。(pp,34-35)