公共性を巡って幾つか

 先ず、sarutoraさんの「迷惑」*1。昨年末の早稲田大学ビラ撒き逮捕事件*2や大阪の〈ホームレス〉排除事件などを「迷惑」という鍵言葉で論じる。頷くところも多いのだが、そこで述べられているのは、どちらかといえばnormal/abnormalという二項が析出される一般的なメカニズムなのであって、何故今になってという次元が弱いような気がする。多分、そのことはsarutoraさんご自身が充分に承知されていることだろうけど。ところで、曰く、


例えば私が大学生だったとき、つまりもう20年も前からすでに、「ビラをまく人」に対して冷淡な、あるいは無関心な大学生が大多数でした。そう言えば、私が通っていた大学では、民青の人々が、学内でビラをまく「ニセ左翼暴力集団」(と民青に呼ばれていた人)を取り囲み、追い出す、という光景がしばしば見られました。でも、多くの学生は、追い出される人々はもちろん、追い出す民青をも、冷淡に眺めているだけでした。ましてや、今の大学生は、「民青て、何?」状態ではないでしょうか。当時、学内で孤軍奮闘してビラを作っていたKさんという一年上の人は、自分たちを「生徒」と自称する「学生」が増えていることをよく嘆いていました。20年前からそうだったわけです。今はおそらく「○○大学の「生徒」」という言い方に何の違和感も持たない「学生」がほとんどでしょう。
ここで、そうそうなんて頷いてしまうと、年齢がばれそうなので、自粛します。多分、大学生にとっての〈大学〉の意味というのが徐々に時間をかけながら変容してきたのだろう。かつては、大学は生活する場、〈居場所〉だったように思う。生活そのものには目的などない。また、講義に出るとか勉強するというのは〈生活〉の一部にすぎない。だから、授業の有無に拘わらず、大学(或いはその周辺)には来ていた。多分、徐々に授業を受けに行くための場所になっていったのだと思う。つまり、大学生にとって、大学というのは幾つかある〈職場〉の一つにすぎない。但し、そこでは、彼(彼女)は消費者=労働者なのだが。「生徒」という自称の蔓延はその変化を反映しているのだと思う。変化は勿論緩慢なものだっただろうが、学生の授業出席率の上昇といったものがある筈だ。〈学生〉というのが学問をしている人という一般的な社会的身分を指示しているのに対して、〈生徒〉というのは(あくまでも私の感覚では)特定の機関の管理下にあって役割を遂行する者ということしか意味しない。そうすると、所謂〈迷惑〉な連中はその役割遂行にとって邪魔なだけだということになる。恐らく、昔と今とでは、「迷惑」の意味も違っているのだろうと思う。〈居場所〉だったときは、自分の〈居場所〉を荒らす奴、〈居場所〉に仁義を欠いて入り込む奴が「迷惑」だったのである。それが今や、〈職場〉の上司に逆らう奴が「迷惑」ということになってきているのではないか。
 多分、このことは、Arisanさんが「早大ビラまき逮捕事件にふれて」*3で書いている「公園とか大学の構内(あるいは大学そのもの)といった、これまで誰でもが出入りできるし適当に使っていいとされていた空間や場所が、急速に「私営化」されつつある」ことと関係があるのだろう。また、

監視し管理しやすい空間によって社会全体を満たそうとする傾向として、この「空間の変質」をとらえることも可能だからだ。

公園から野宿者を追い出したり、大学構内からビラをまく学生を(警察の力をかりて)排除するというのは、安全性ではなく、治安が最優先される社会というものの到来を示しているだろう。

つまり、野宿する人や、ビラをまく学生が本当に危険なのではなく、その人たちに「危険」とか「違法」というレッテルを貼って排除することによって成立する透明な(監視可能な)空間を、多くの人々が好ましいものとして希求するような社会の到来、ということだ。


あてずっぽうを書くと、この社会の変容の背景にあるのは、冷戦終結以後の軍事産業をはじめとした産業界の戦略転換ではないだろうか。

冷戦終結以後の世界では、「監視」や日常的な治安の確保に、ビジネスチャンスを見出さざるをえなくなったため、日常の安全性への不安が誇張して宣伝され、人々の意識を(雑然さへの嫌悪へと)変えていった。

それだけではないだろうが、そういう要素も考えておく必要はあると思う。

といわれているのも、空間の意味が機能主義化していることの当然の帰結だろう。大学側にとっても学生にとっても、(単位の授受といった)限定された役割行為を効率的に行うことが至上命題であり、その見地からすれば、そこから逸脱するノイズは排除してしかるべきだということになる。ただ、「冷戦終結以後の軍事産業をはじめとした産業界の戦略転換」というのはどうだろうというより、「産業界」なるものが主体として存立することはできないだろうと思う。存在するのは、様々な思惑を抱え・互いに競合する企業たちと、それらが織りなすアジャンスマンである。

 さて、「アーレントとマックスヴェーバーがもし1973年生まれだったら?」*4であるが、その前提となっている『ウェブ進化論』という本を読んでいないので、何ともいえない。