高度消費社会とか

牧村朝子*1「羽田と成田を間違えたけど間に合った話」https://note.mu/yurikure/n/n5bd0499da700


台北に行くための飛行機が羽田発だと思っていたのに、実は成田発だったと羽田空港に着いてから気づいて、タクシーを飛ばして成田に駆け込んで、ぎりぎりで間に合ったという話。この記事はそのぎりぎりに間に合った成田の搭乗ゲートで書かれた。たしかに、直ちに、まだ記憶が冷めないうちに、他人にシェアしたくなるような体験だ。
曰く、


落ち着く。八つ当たりしない。人を急かさない。羽田と成田を間違えた人を、旅行・交通業界の人はこれまでも見て来ており、仕事として助けてくれるので、運を天とプロに任せる。もしかして飛行機が遅れるかもしれないし、おかげで何か素敵な出会いがあるかもしれない。人生、トラブルが素敵な偶然に繋がることはいくらでもある。
パニくる、「八つ当たり」する。「人を急か」す、これは私が屡々行っていること(笑)。成田や浦東の第一ターミナルと第二ターミナルを間違えるのでさえ、私にとってはけっこう気が動顛する経験だ。港内のシャトル・バスに乗ればそれで済むのに。
さて、興味深かったのは、

「ど、どうすればいいですかね?お姉さんだったらどうしますか!?」
何か困ったことがあってお店の人とかに聞くときわたしはいつも「あなたならどうする」って聞く。「わたしはどうすればいいですか」っていうとその人はお客さんであるこちらの行動の責任を取らないといけなくなっちゃうので、答えにくいのだ。だから「ご自分だったらどうなさいますか」って聞き方が一番いいと思っている。家電で迷ったときも、病院で複数の治療法を提示されたときも、羽田と成田を間違えた時も。

「そうですね……」
空港スタッフさんはサッと時計を見て、
「急ぐと思います。あきらめないで!」
スーパー決め台詞を放った。

かっこよかった。

たしかに。ここで考えたのは、この「お店の人」などがユーザーの立場になってみて、意見を述べる能力というのは歴史的に見て、決して普遍的なものではないということだ。単純化して言えば、それは高度消費社会に特有の能力といえるのではないか。高度消費社会以前の封建社会とか産業社会とかでは、ユーザーの立場に立ってみるという能力の育成はより難しかったのでは? 以前平田オリザ氏が描いていたのだけど、例えば第三世界の高級ホテルや高級レストランで働いている人が同じ或いは別の高級ホテルや高級レストランの客になる可能性は皆無とはいえないのだろうけど、かなり低いといえるだろう(『芸術立国論』)。つまり、彼(彼女)らが実際にユーザーとなって、お客と同じ目線で物事を見る経験をする可能性は低い。その場合、お客様から「あなたならどうする」? と訊かれても、即座に返答することは難しいだろう。何しろ、ユーザーになったことなんかないし、なる可能性も低いのだから。上から仕込まれたマニュアル的な回答ならともかくとして。高度消費社会というのは、そのような可能性が高まる社会であるといえるだろう。例えば日本の高級ホテルで清掃係をやっているような人も休暇のときは海外の高級ホテルのお客様になっているということも十分にあり得る。というか、日本で発売される標準的なツアーのパッケージではそれなりのクラスのホテルが宛がわれるのが普通だ。新自由主義が昂進して、経済的のみならずあらゆる格差が拡大していけば、例えば高級ホテルの清掃係とお客様が役割交替する可能性も再度低くなる。そのような社会では、「ご自分だったらどうなさいますか」という質問に対する「お店の人」のナイスな回答を期待することも再度難しくなるだろう。
芸術立国論 (集英社新書)

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