- 作者: 丸谷才一
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2007/10/10
- メディア: 文庫
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丸谷才一「日本語があぶない」(in 『ゴシップ的日本語論』*1、pp.11-47)
少しメモ。
テレビが日本人の語り、聞く能力を急速に増大させたのは確かです。それはそれなりにいいところなんです。しかし同時に、テレビは読み書きの能力を急低下させた。これはあまり言はれてゐないことだけれど、重大なことなんです。
テレビでワイドショーを見ますね。テレビの画面では、司会者がいろいろ説明する。それから、登場する人物が、みんな声のほかに表情を持ち、しぐさを見せる。声の出し方にも、いろいろイントネーションがある。声の大小強弱がある。そのために、言葉それ自体が抽象的に表出されるではなくて、いはばコンテクスト(文脈)を持つてゐて、前後関係を説明する補助的な要素をともなつて出てくる。言葉だけがテクストなのではない。
一方、新聞・雑誌、そして本といふものは、版面に書いてある字だけがテクストである。たまに挿絵がはいるとかして、さういふコンテクストを伴ふ場合もある。作者名や題が、コンテクストになることもある。この著者は、尊敬されてゐる実業家で、金儲けのコツをよく知つてゐる人だ、といつたことが一種のコンテクストだとも言へます。しかし、一般にさういふコンテクストはごくわづかなもので、テレビの画面でのコンテクストの膨大さとはまつたく違ふ。
昔の子供は、小さいうちから字面だけのテクストと対面して、テクストを読み取る能力を自分で養つてきた。ところが、今の子供はその訓練を経てゐない。文字を習ふ前から、テレビで、コンテクストがびっしりついてゐるテクストを見てゐるために、テクストとつきあふ能力をかなり弱められてしまつたのではないだらうか。
文章とは、抽象的な、中立的な読者を想定して書かれるものだし、また、そのやうにして書かなければならない。ところが、テレビ時代にはいつて成長した人々には、テクストがさういふものだといふことを知らない人が多いから、さういつた文章を書きにくくなつた。
もう一つ、ここでつけ加へなければいけないのは、携帯電話の大流行です。(略)携帯電話といふのは、テレビ以上にコンテクストに寄りかかつてゐる表現なんです。テクストなし、コンテクストだけがあると言つていいかもしれません。(pp.43-44)
*1:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180206/1517893783