井田真木子『フォーカスな人たち』

フォーカスな人たち (新潮文庫)

フォーカスな人たち (新潮文庫)

井田真木子『フォーカスな人たち』*1を先週末に読了。


文庫版プロローグ


プロローグ
黒木香――生真面目に猥褻を生きた”わたくし”
村西とおる――日本一忙しい男根をもつ名セールスマン
太地喜和子――けたたましく笑いながら海へ還った紀州
尾上縫――日本経済に大穴をあけた稀有なミナミの女将
細川護熙――虚ろなリベラル人気に浮かれた肥後の”殿”
エピローグ


文庫版エピローグ
解説(福田和也

タイトルの『フォーカスな人たち』の「フォーカス」とは、今は亡き『フォーカス』という新潮社から発行されていた写真週刊誌のことであろう。「プロローグ」には、『フォーカス』(或いは現在も生き延びている『フライデー』(講談社)を含めた写真週刊誌)についての考察もあるのだけれど、写真週刊誌と本書全体との関係というのは、本書が写真週刊誌に取り上げられた人物たちを取り上げているということ以外は、いまいちよくわからなかった。この本はそもそも1995年に『旬の自画像』として文藝春秋から上梓されており、文庫化に際して、(文庫本の版元に敬意を払ったのかどうかは知らないけれど)『フォーカスな人たち』に改題された。原題との関係で見れば、『フォーカスな人たち』というのは(メディアによって)焦点を当てられた人々、ということになるのだろう。
各章のタイトルに登場する人以外にも、もっと沢山の人物が登場する。そのことによって、私及び私よりも上の世代にとっては、ノスタルジアに浸るネタになり、若い世代には現代史のお勉強になるだろう。大雑把な感想を続けると、全体的に女性の存在感が強い。特に黒木香村西とおるの章も、ほぼ黒木香の章の続きでしかないようだ。
福田和也*2による文学史的考察を抜き書きしておく;

(前略)日本のノンフィクション、特に一九七〇年代からはじまった潮流は、ある種の自己表白のためのメディアだと、私は思っている。それは沢木耕太郎を考えていただければ一番分かり易いのだけれども、『一瞬の夏』のような作品だけでなく、『テロルの決算』のような書き手自身がほとんど登場しない作品においても、「事実」という素材を使っての、かなり臆面もない自己表出が行なわれているのだ。
ノンフィクションが、自己表現のためのジャンルになるという現象は、文学の側の動向に対応している。かいつまんで云えば、最初近代的自我の表出としてはじまった近代小説(ロマンティシズムのようなものですな)は、モダニズムをはじめとする前衛などさまざまな意匠の洗礼の後に、単純に自分を露に出すような形の文学表現ができにくくなった、やってもいいのだけれど、余程周到な手続きを踏まないと、なんともアナクロで、みっともないものになってしまったのである。
文学が自己表白を禁じられた状況において、その欲求を言葉の表現において担ってきたのが、ノンフィクションだ、ということになるだろう。ノンフィクション・ライターは、さまざまな「現実」に投影された個人として、自らが探しだした事実を提示することで、彼のいた場と時を刻み、そしてその事実を組み合わせて、世界像を作り、物語りを完成させるのである。創造という場所から退き、調査と検証という手続きに埋没することで、ノンフィクション・ライターは作家たちが最早振るうことのできない、機能を作品の上に振るうことができるのだ。
ノンフィクション・ライターのなかで、井田さんはきわめて特異な存在だと思う。
沢木耕太郎が一番分かり易いけれど、その対極にいるように見える吉田司のような書き手でも、やはりその自我表出の基本的な枠組みは、ナルシズムだと思う。このナルシズムが、読者の共感を呼ぶと同時に、作品を安心のできる、つまりは安全なものにしているのだけれど井田さんには、ナルシズムがないように見受けられる。そこが、井田さんの一番「コワ」いところだし、また図抜けたところだと思う。沢木氏の作品には、きっと書かれた方も読者も、、そして書き手も気持ちよくなるんじゃないかという、という気がする。でも、井田さんの場合、そうはならない。
要するに井田さんの作品は、読者も、対象も、救いはしない。むしろ居心地を悪くさせるのだ。もっと率直に云えば成仏させないのだ。(pp.489-490)
新装版 テロルの決算 (文春文庫)

新装版 テロルの決算 (文春文庫)