『ある家族の会話』

ある家族の会話 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

ある家族の会話 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

数日前にナタリア・ギンズブルグ*1の『ある家族の会話』を読了。
「まえがき」に曰く、


この本に出てくる場所、出来事、人物はすべて現実に存在したものである。架空のものはまったくない。そして、たまたま小説家としての昔からの習慣で私自身の空想を加えてしまうことがあっても、その箇所はたちまちけずりとらずにはいられなかった。
人名もそのまま用いた。この本を書くにあたり、私は空想の介入をまったく許容できなかった。本名を変えなかったのはそのためである。また本人たちと彼らの名を切りはなして考えることが私にとって不可能だったからである。これを読んで自分の名が出てくることに反撥を感じる人があるかもしれない。その人たちには申しわけない、としか私には言えない。
また私は自分が憶えていたことだけしか書かなかった。したがってこの本をひとつの年代記として読む人は、多くの脱落を非難するだろう。だから題材は現実に即していても、やはり小説として読んでいただきたい。すなわち、小説が読者に提供できるもの以上、あるいは以下のいずれをも要求することなく読んでいただければ幸いである。
それから、自分で憶えてはいてもわざと書かなかったこともたくさんある。とくに私自身にかかわることについては、省略した。(pp.1-2)
「この本は私についてのものがたりではなく、私の家族として書かれた」ということだ(p.2)。最後のパラグラフまで読んで、この本はその内容が事実か虚構かに関わらず、「小説」なんだということを実感した。
些かエクセントリックな解剖学教授、ジョゼッペ・レーヴィを家長とする伊太利のユダヤ系知識人家族及びそれに連なる人々の1920年代から1950年代に至る軌跡が末娘(ナタリア)の視点から描かれる。ムッソリーニ率いるファシストの台頭、ムッソリーニによる政権奪取と反ファシスト闘争、ファシスト打倒と冷戦の開始。
ネタバレになるかも知れないけれど、この小説の別の主人公はこの「家族」が住んでいたトリノのという都市である。

再婚後しばらくして私はローマに住むために家をはなれたが、母はかなりのあいだ私を恨んだ。しかし母の心にうらみの気持が苦々しい根を春ということは決してなかった。私はローマとトリノの間をせっせと往復した。それは永遠にトリノを去るための準備期間だったのだ。
私は心のなかでトリノに、そして出版社に別れを告げていた。私は同じ出版社のローマ支社で働くことになっていた。でもトリノとはすべてがちがうだろうと考えていた。私の愛していたのは、レ・ウンベルト通りにあるカフェ・ブラッティから数メートルの距離の、かつてバルボ夫妻が住んでいた家から数メートルのところにある、またパヴェーゼから数メートルのところにある、またバヴェーゼが死んだアーケードのあのホテルからも数メートルしか離れていないあの出版社だったのだ。(p.273)