美容整形外科医の語り

あのナチスもとい高須先生*1ではない。


村上春樹「独立器官」(in 『女のいない男たち』*2、pp.125-178)から、主人公の美容整形外科医である「渡会」*3の語り。


(前略)
「私たちはずっと楽しく、気持ちよくやってきました。活気のある会話、二人だけの親密な秘密、時間をかけたデリケートなセックス。我々は美しい時間を共有できたと思っています。彼女はよく笑いました。彼女はとても楽しそうに笑うんです。でもそういう関係を続けてきて、次第に彼女のことを深く愛するようになり、後戻りができないようになってきて、それで最近よく考えるようになったんです。私とはいったいなにものなのだろう*4と」
最後の言葉を聞き逃した(あるいは聞き間違えた)ような気がしたので、もう一度繰り返してくれるように僕は頼んだ。
私とはいったいなにものなのだろう*5って。ここのところよく考えるんです」と彼は繰り返した。
「むずかしい疑問だ」と僕は言った。
「そうなんです。とてもむずかしい疑問です」と渡会は言った。そしてむずかしさを確認するように何度か肯いた。僕の発言にこめられた軽い皮肉はどうやら通じなかったようだった。
「私とはいったい何なんでしょう?」と彼は続けた。「私は美容整形外科の医師として、これまで何の疑問も持たずに仕事に励んできました。医科大学の形成外科で研修を受け、最初は父の仕事を助手として手伝い、父が目を悪くして引退してからは、私がクリニックの運営にあたってきました。自分で言うのもなんですが、外科医として腕は良い方だと思います。この美容整形という世界は実に玉石混淆でして、広告ばかり派手で、内実ずいぶんいい加減なことをしているところもあります。しかしうちは終始良心的にやってきましたし、顧客との大きなトラブルを起こしたことは一度もありません。私はそのことにプロフェッショナルとしての誇りを持っています。私生活にも不満はありません。友達も多くいますし、身体も今のところ問題なく健康です。生活を私なりに楽しんでいます。しかし自分とはいったいなにものなのだろう>*6、最近になってよくそう考えるんです。それもかなり真剣に*7考えます。私から美容整形外科医としての能力やキャリアを取り去ってしまったら、今ある快適な生活環境が失われてしまったら、そして何の説明もつかない裸の一個の人間として世界にぽんと放り出されたら、この私はいったいなにものになるのだろうと」
「なぜ急にそんなことを考えるようになったんですか?」と僕は尋ねた。
「そう考えるようになったのは、ナチの強制収容所についての本を少し前に読んだせいもあると思います。そこに戦争中にアウシュヴィッツに送られた内科医の話が出てきました。ベルリンで開業医をしていたユダヤ系市民が、或る日家族と共に逮捕され、強制収容所に贈られます。それまでの彼は家族に愛され、人々に尊敬され、患者には頼られ、瀟洒な邸宅で満ち足りた暮らしをしてきました。犬を何匹か飼い、週末にはアマチュアチェリストとして、友人たちとシューベルトメンデルスゾーン室内楽を演奏しました。穏やかに豊かに人生を楽しんでいたわけです。しかし一転して生き地獄のような場所に放り込まれます。そこでは彼はもう豊かなベルリン市民ではなく、尊敬される医師でもなく、ほとんど人間でさえありません。家族からも離され、野犬同然の扱いを受け、食べ物さえろくに与えられません。高名な医師であることは所長が知っていて、ある程度役に立つかもしれないという理由で、とりあえずガス殺こそ免れましたが、明日のことはわかりません。看守の気分ひとつで、あっさり棍棒で殴り殺されてしまうかもしれません。他の家族はおそらく既に殺されてしまっているでしょう」
彼は少し間を置いた。
「私はそこではっと思ったんです。この医師が辿った恐ろしい運命は、場所と時代さえ違えば、そのまま私の運命であったかもしれないのだと。もし私が何かの理由で――どんな理由かはわかりませんが――今の生活からある日突然引きずり下ろされ、すべての特権を剥奪され、ただの番号だけの存在に成り下がってしまったら、私はいったいなにものになるのだろう? 私は本を閉じて考え込んでしまいました。美容整形外科医としての技術と信用を別にすれば、わたしには何の取り柄もない、何の特技も持たない、ただの五十二歳の男です。一応健康ではありますが、若い時より体力は落ちています。激しい肉体労働に長くは耐えきれないでしょう。私が得意なことと言えば、おいしいピノ・ノワールを選んだり、顔の利くレストランや鮨屋やバーを何軒か知っていたり、女性にプレゼントする洒落た装身具を選べたり、ピアノが少し弾けたり(簡単な楽譜なら初見で弾けます)、せいぜいそのくらいです。でももしアウシュヴィッツに送られたら、そんなもの何の役にも立ちません」
僕は同意した。ピノ・ノワールについての知識も、素人ピアノ演奏も、洒落た話術も、そういう場所ではおそらく何の役にも立つまい。
(後略)(pp.148-152)
この短篇は、52歳で〈老衰死〉する男の物語でもある。