「人形」(メモ)

鎌倉幻想行

鎌倉幻想行

村上光彦「黄泉への道」(in 『鎌倉幻想行』、pp.16-28)から抜書き。


人から顧みられなくなったとき、品物はまがまがしさを帯びる。とりわけ、捨てられた人形は、そのうつろな目のなかに為体の知れぬ妖気を漂わせている。人形は、たとえ安物であっても、人をかたどったものであるかぎり、人からなにがしの命のぬくもりを吸い取ってゆくのだろう。その命の気配は、人の生活の場のなかでは、あたりの空気になじんでいて、めったに人を驚かせたりはしない。ところが、捨てられた人形においては、ぬくもりが霊気と化し人の生活から独立してかってに育ってゆく。非情な持ち主への怨みが取り憑くからなのか、とさえ疑われる。海岸を散歩するときに見かける、波打ち際にころがっている人形からは、なにか無念の思いといったものが発散しているのではないか。いつだったか、まだ色の鮮やかな人形を砂地に見た瞬間、ぼくははっとして思わず立ち止まった。その衝撃は、犬や猫の屍体から呼び覚まされるのと同じような性質のものだった。その人形を砂のうえから拾いあげる気になれなかったのは、砂で手が汚れたり塩気がべとついたりする不愉快さを避けるためだけではなかった。
人形ばかりか、動物の玩具にしても、生活の場から放りだされると、たちまち以前とは別のものになって生きはじめる。(pp.16-17)
以前「人形」に対する「信仰」を採り上げたことがあったのだった*1
さて、村上は

(前略)捨てられて久しく経った品物は持ち主から独立する。それでいて、それは《人》と隔絶することがない。それは個人のものではなくなって、かわりにいわば無人称の《人》のものとなるのだ。(p.21)
とも書いている。さらに、「小説を読んでいるときに、話の筋とは無関係に、ものの存在感が奇妙に迫ってくる」(p.22)という「一種の心の癖」(p.21)が言及される――

このこだわりの契機となったのは、ルーマニアの作家マルチェル・ブレケルの『直接的非現実のなかでの冒険』(一九三六年)という薄い仏訳本だ。多様な品物がこれほど濃密な実在感をもって叙述されている作品を、ぼくはほかに知らない。また、マルセル・ブリヨン*2の世界もときおり事物から発散する異様な感じを漂わせる。さらにロマン・ガリ*3著『夜明けの約束』(一九六〇年)のなかでも、部分的にこの種の感覚を刺戟する描写が認められた。しかし、いまはただ、こういう主題の可能性を暗示するにとどめよう。もし、じっさいに《もの》について研究することになったら、まずリルケ*4をじっくり読まなくてはなるまいし、そんな能力がぼくにないことはわかっているからだ。(p.22)