稲生武太夫など

朝日新聞』の記事;


烏天狗のミイラ」「竜の頭蓋骨」… 妖怪博物館建設へ

泉田洋平

2017年1月23日10時18分

 「もののけ文化」で町おこしをめざす広島県三次(みよし)市が、妖怪にまつわる絵巻物や珍品を展示する博物館の建設を決めた。展示の核になるのは、妖怪コレクターが生涯をかけて収集した資料3千点。市は2018年の開館を予定している。

 資料を集めたのは、東京都江戸川区湯本豪一(こういち)さん(66)。「日本人の想像力で生まれた独自の文化を後世に伝えたい」との思いから、約30年前から妖怪にまつわる美術品などの収集を始め、これまでに私財1億円以上を投じたという。

 一方、島根県に隣接する山間部にある三次市は、江戸時代の妖怪物語「稲生物怪録(いのうもののけろく)」の舞台としても知られ、「もののけ」の伝承を生かした地域の活性化を模索していた。折からコレクションの展示・管理施設を探していた湯本さんと、市の思いが一致。博物館の建設を条件に、湯本さんが市に収集品を無償譲渡することが決まり、昨年末に双方が契約を結んだ。

 寄贈される3千点のコレクションには、様々な妖怪が行列する様子を描いた「百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)絵巻」や、怪談を題材にした葛飾北斎作の錦絵「百物語」など、貴重な作品も多い。妖怪を描いた着物や陶磁器、紙芝居やポスターなど近現代の資料のほか、「烏天狗(からすてんぐ)のミイラ」や「竜の頭蓋骨(ずがいこつ)」と伝えられる珍品もある。

 市が建てる博物館の愛称は「三次もののけミュージアム」となる予定。総事業費約12億円を見込み、「もののけ文化」をテーマにした展示棟のほか、観光情報を提供する交流棟も建てる計画だ。湯本さんは川崎市市民ミュージアムの元学芸室長で、経験を生かして施設設計や展示内容について市に助言するという。

 湯本さんは「専門の博物館ができることになり、妖怪たちも喜んでいると思う。地元の人に理解を深めてもらい、妖怪文化の魅力を広く国内外に発信していきたい」。増田和俊・三次市長は「貴重な資料を譲っていただき、大変ありがたい。活用して街を元気にしていきます」と話す。(泉田洋平)
http://www.asahi.com/articles/ASJDS6VHFJDSPITB00D.html

百鬼夜行絵巻」*1 もあるのか。
稲生物怪録*2というのは、妖怪側というか魔界側から見れば、山本五郎左衛門*3と神野悪五郎*4という二大モンスターによる人間脅かしっこ競争の物語であって、何処かしら『モンスターズ・インク』/『モンスターズ・ユニヴァーシティ』*5的な趣があるなと思った。
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さて、『稲生物怪録』に関するWikipediaの記述。タイトルの念み方を巡る論争の紹介もあるのだが、それはさて措く。

稲生物怪録』(いのうもののけろく、いのうぶっかいろく)は、江戸時代中期の寛延2年(西暦1749年)に、備後三次藩(現在の広島県三次市藩士の稲生武太夫(幼名・平太郎)が体験したという、妖怪にまつわる怪異をとりまとめた物語。

著者は柏生甫であり、当時16歳であった実在の三次藩士、稲生平太郎寛延2年7月の1ヶ月間に体験したという怪異を、そのまま筆記したと伝えられている。あらすじは、肝試しにより妖怪の怒りをかった平太郎の屋敷にさまざまな化け物が30日間連続出没するが、平太郎はこれをことごとく退け、最後には魔王のひとり山本五郎左衛門から勇気を称えられ木槌を与えられる、というものである。平太郎の子孫は現在も広島市に在住、前述の木槌も国前寺に実在し、『稲生物怪録』の原本も当家に伝えられているとされる。現在は、三次市教育委員会が預かり、歴史民俗資料館にて管理している。稲生武太夫墓所広島市中区の本照寺にある。

実は、1742年には「三次藩*6は既に存在していない。

三次藩(みよしはん)は、江戸時代中期まで備後北部を領有した藩。藩庁として三次に三次城が置かれた。知行高は5万石。

寛永9年(1632年)初代広島藩主・浅野長晟の庶子で長男の長治が三次郡恵蘇郡を与えられ立藩した。享保4年(1719年)4月、4代・長経は13歳で没し一旦は広島藩領となったが、同年11月、長経の弟・長寔に相続が認められた。しかし、長寔も翌、享保5年(1720年)10歳で没したため廃藩となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E8%97%A9#.E4.B8.89.E6.AC.A1.E8.97.A9

稲生武太夫の墓が広島市内にあったり*7、武太夫の霊を祀った「稲生神社」が広島市内にあったり*8、子孫が広島市内に住んでいたりするのも*9、これと関係があるだろう。三次藩領は本家の広島藩に吸収合併されたので、要するに子会社に出向していたけれど子会社がなくなったので本社に戻ったという感じだろうか。
Wikipediaの「山本五郎左衛門」の項では、年代が全然違っている;

寛永2年(1625年)、備後国三次(現在の広島県三次市)において、稲生平太郎三次藩の実在の藩士・稲生武太夫の幼名)を、30日間におよび様々な怪異を起こして脅し続けたが、平太郎は耐え続けた。そして7月30日に1ヶ月間の怪異の締めくくりとして、裃を着た40歳ほどの武士の姿で平太郎の前に姿を現して名を名乗り、神野悪五郎(しんの あくごろう)と魔王の頭(かしら)の座をかけて、勇気のある少年を100人驚かせるという賭けをしており、インド、中国、日本と渡り歩いて、その86人目として平太郎を驚ろかそうとしたが、平太郎が動じなかったことで夢が破れ、最初からやり直しであると、平太郎の気丈さを褒めたたえた。そして、もう怪異を起こすことはないが、悪五郎が来たときにはこれを使えば自分が助力するといい、木槌を遺し、妖怪たちを引き連れて去って行った。この槌は広島市東区の国前寺に寺宝として後に伝えられている。
一気に100年以上早くなっている! しかし、三次藩ができるのは1632年なので、この時点ではまだ三次藩は存在してない。
三次市の、稲生武太夫が妖怪たちに遭遇したと伝えられている稲生家屋敷跡には三次市によって記念碑が建てられている。その写真を見ると、稲生武太夫は1725年に生まれ、1801年に歿している*10。これでもまだ数年ずれがあるけどまあいいや! また、武太夫三次藩廃止後に生まれていることになる。もしかして、「三次藩」というか「藩」に拘っていたのがいけなかったのではないかと思った。「三次藩」が廃藩になったとしても、広島の御城下から離れた僻地でもあり、三好一帯は広島藩の直接の支配下にあったわけではないだろう。郡代が支配していた筈であり、旧三次藩の組織も、広島藩に所属しつつ、郡代役所の中にそのまま組み込まれたのではないか。それが俗には惰性で「三次藩」と呼ばれ続けているのでは? そうすると、稲生武太夫は最初は田舎の営業所に勤めていたのが何かのきっかけで本社に栄転したという感じだろうか。
つい稲生の話が長くなってしまったが、「竜の頭蓋骨」についての無駄話。「頭蓋骨」かどうかはわからないけれど、龍の骨自体は珍しくない。漢方薬として(今も)売られている。実際は化石化した哺乳類の骨だけれど*11清朝末期にリューマチを患っていた王懿栄は治療薬として薬屋で買った龍骨から甲骨文字を発見したのだった。これに関しては、何故か薮内清『歴史はいつ始まったか』をマークしておきたい気分。
歴史はいつ始まったか―年代学入門 (中公新書 590)

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