「フォーク」ということなど

承前*1

税所玲子「ボブ・ディランの歌は文学か?」http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2016_1216.html


ボブ・ディランノーベル文学賞受賞を契機にして英国で起こった「歌は文学か」論争を中心に。ただ正直言って、この論争はあまり意味のある論争だとは思えない。倫敦大学のジョン・ムラン教授はボブ・ディランの場合「音楽抜きで歌詞を読むと、その輝きは失われると指摘」したという*2。でも、英文学の場合、この指摘は近代英文学の開祖シェイクスピアにも似たような問いが投げかけられることになるよ。シェイクスピアというのはそもそも役者によって演じられるのを観るものであって、舞台からも役者の肉声からも切り離された字としてシェイクスピアを読むのはオーセンティックなシェイクスピア経験なのだろうか。勿論、日本文学においても、世阿弥を字として読むだけでいいの? 近松門左衛門を字として読むだけでいいの? という問いは成立する。
それよりも、ボブ・ディランノーベル賞受賞は重要で興味深い問題を提起したといえる。文学と民間伝承(フォークロア)との関係。有名な詩人や作家というのは実は無名な、匿名的な騒めきとして現れる民衆的想像力という海に浮かぶ特異点としての島のようなものなのではないか。或いは、伝統(過去)から浮かび上がる今。こういう問題は、(大江健三郎はともかくとして)村上春樹が受賞したとしてもあまり想起されなかったのではなかろうか。
その点に関して、興味深いのは中川五郎氏と萩原健太*3との対談;


ボブ・ディランの何がノーベル賞なのか?」http://withnews.jp/article/k0161209007qq000000000000000S00110501qq000014394A


曰く、


中川 誤解を恐れずにいえば、ディランの歌にはすべて「元」があります。それは古いトラッドやフォークソング黒人霊歌、ゴスペル、ブルースといった民衆の音楽です。そうしたものを下敷きにしながら、自分なりに手を加えていく曲作りを彼は一貫して続けています。じゃあ独創性がないかといえば決してそんなことはなく、彼が魔法の粉をふりかけると、眠っていた古い曲が時代と共振・共鳴する新たな歌になるんです。
萩原 最近ではもう、自分自身もスタンダードの一部になったということを十分自覚していると思います。古い曲も自分の曲も、そこに差はなくて、いってみれば全部俺の曲だ、みたいな(笑)。もはや時代を超えた存在ですよね。
中川 特に2000年以降は、彼の特徴がさらに明確になった気がしますね。カバー曲もあるけど、オリジナル曲でも以前よりはっきりと「元」をわかりやすく提示して、素晴らしい作品に仕上げている。

萩原 本人も別に内緒にする気はないんですよね。2001年に『ラヴ・アンド・セフト』、つまり「愛と窃盗」というタイトルの作品を出していますが、これ、「愛を持ってパクる」とも解釈できますから。
中川 宣言しちゃったね(笑)。最近はアメリカ人みんなの共有物である曲を、代表してディランが歌っているようにも聞こえます。僕は今回の受賞というのは、彼の業績だけでなく、アメリカ民衆音楽の文化的豊かさ全体への顕彰だという気がするんです。
Love and Theft

Love and Theft

極論すれば、以下のようなこともいえると思う。言語の真の主体というのは、取り敢えず英語の言霊とか日本語の言霊としかいいようない存在者であって、優れた書き手や詩人であればある程、〈言霊〉が具体的な言語として自己実現するためのメディア(霊媒)として機能し得るのだと。
また、これはフォーク・ソングというジャンルの意味とも関係しているだろう。思うに、日本語を母語とする人たちは(日本語の偶々の慣用のおかげで) 伝統(過去)から浮かび上がる今というような問題系からは遮断されているのだった。日本語でフォークというと、アコースティック・ギターを弾きながら歌われる政治的だったり感傷的だったりする歌詞の歌というイメージが浮かぶだろう。他方、民謡というと、盆踊りだったり夏祭りだったりがイメージされる。また、想起される人名やファッションも違う。吉田拓郎金沢明子ジーンズと浴衣。しかし、英語ではどちらもfolk songだよ*4ボブ・ディランへのノーベル賞は、何故どちらも同じようにfolkと呼ばれるのかを再考することを促したという意義があるのではないかと思う。