ミョウガヤではない件

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20161213/1481600217に対して、


白クマ 2016/12/13 22:26
茗荷谷といえば、鶯谷とならんで東京で谷を「たに(だに)」と読む珍しい箇所ですね。なぜそうなのかは浅学にして存じ上げないんですが…。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20161213/1481600217#c1481635562
そういえばそうですよね*1鶯谷については、京都人である輪王寺門跡/寛永寺貫首の公辯法親王所縁ということで納得しやすいですよね*2茗荷谷についてちょっと調べてみましたが、

茗荷谷】(みょうがだに): 東京都文京区
・ このあたりで、昔「茗荷」の栽培が盛んだったことに由来する。
・ 農地だったこの地は、明暦の大火をきっかけとして、武家屋敷や町人町となった。
(「東京の地名の由来」http://folklore2006.jp/0504102.htm

現在は小日向と呼ばれている東京・文京区の一帯は茗荷谷町と呼ばれていた。但し、この名前は明治5年から。大垣野藩戸田淡路守屋敷、七軒屋敷、十二軒屋敷といった武家地を合わせて茗荷谷と名付けた。これは江戸時代、茗荷の畑が多かったことによる。少し語弊がある。茗荷谷町という名称は明治になってからだが、谷の名称としての茗荷谷というは江戸時代からあった。

小日向村が江戸の町方の支配に組み込まれたのは1713(正徳3)年。この年には第7代将軍徳川家継が即位している。
(竹内信春「茗荷谷http://www.digistats.net/usakoji/m/08/1584.htm


旧 茗荷谷町(みょうがだにちょう)
(昭和年までまでの町名)
 古くは、小日向村の畑地であった。正徳(しょうとく)3年(1713)から町方(まちかた)の支配となった。
 小石川台地と小日向台地の間を浅い谷を、茗荷谷と呼んでいる。江戸時代、ミョウガ畑が多かったからといわれている。
 この町名は、この茗荷谷からとった。
 明治5年、金杉水道町飛地(とびち)、旧大垣野村藩戸田淡路守(あわじのかみ)屋敷、七軒屋敷や十二軒屋敷などの武家地を合併した。
 口上(こうじょう)を忘れて戻る茗荷谷(古川柳)
文京区
https://ja.monumen.to/spots/3537
最後の古川柳を見ると、江戸時代から「みょうがだに」と言っていたようですね。それから、茗荷を食べると記憶力が弱くなるという迷信もその頃からあった!
ところで、赤坂と四谷の間、上智大学の裏、ホテル・ニューオータニの辺りの紀尾井町も清水谷(シミズダニ)ですよね。かつて学生運動の聖地だった清水谷公園もある。紀尾井町の「井」は「井伊」の「井」。その井伊家発祥の地である静岡県の「井伊谷」はイイダニではなくイイノヤ*3。フォッサ・マグナの向こうとはいえ、遠江言語学的東国であるということになる。

さて、茗荷谷に戻ると、丸ノ内線茗荷谷駅を最寄り駅とする大学はお茶の水女子大学拓殖大学。拓大生とお茶大生との恋愛というのはありそうでありえないんじゃないかと思うのは私の偏見に過ぎないのだろうか。そういう小説やドラマってあるの?