アトムズとスワローズの狭間、など

『日刊スポーツ』の記事;


荒川博氏が死去、王貞治氏に「一本足打法」を指導
[2016年12月4日22時23分]

 元プロ野球巨人の打撃コーチとして、王貞治氏に「一本足打法」を指導した荒川博(あらかわ・ひろし)氏が4日午後、心不全のために東京都内の病院で死去した。86歳。東京都出身。葬儀・告別式の日取りは未定。

 東京・早稲田実業高から早稲田大を経て1953年に毎日(現ロッテ)に入団し、外野手としてプレー。61年に現役を引退し、62年から70年まで巨人でコーチを務めた。「素振りをしていた部屋の畳がすり切れた」「集中力を研ぎ澄ませるため、日本刀で素振りをした」などのエピソードが残る猛練習は「荒川道場」と呼ばれ、伸び悩んでいた王氏を一流の打者に育てた。

 68年には阪神戦で王氏への危険球を巡りバッキー投手と乱闘となった。74年から76年途中までヤクルトの監督を務めた。

 現役時代の通算成績は9年間で503安打を放ち、打率2割5分1厘、16本塁打、172打点。監督通算は127勝142敗20分け。
http://www.nikkansports.com/baseball/news/1747436.html

See also


荒川博氏が急死“道場”で日本刀素振り、世界の王へ」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161205-01747489-nksports-base
王貞治氏、荒川氏の死を悼む 「今の僕があるのは荒川さんの情熱があったから」」http://full-count.jp/2016/12/04/post52561/


昼食後に胸の痛みを覚え、入院し、その日のうちに向こう側へ行ってしまったのだという。
荒川氏は「74年から76年途中までヤクルトの監督を務めた」わけだけど、その頃って、たしかヤクルトアトムズからヤクルトスワローズに変わった時期だったのではないかと思った。Wikipediaによれば、荒川氏は1973年のシーズン途中にヤクルトアトムズの打撃コーチになっている*1。そして、ペナント・レースが終わった同年10月にティーム名がヤクルトスワローズに変更されている*2。翌1974年に荒川氏は監督へ昇格。
どのメディアでも言及していないが、荒川氏の養子には荒川尭氏というのがいるが、この方は養父の博氏よりもずっと数奇な人生を送ったのだった*3