御蔵稲荷

8月2日。
御蔵稲荷神社*1船橋市本町4丁目*2



御蔵稲荷の由来と謝恩の碑


この稲荷神社は御蔵稲荷と呼ばれ、祭神は宇賀魂神である。この神は元来作物、食物の神であり、土地の守護神でもある。神社周辺は歴史的由緒が深く、様々な史話を伝える。江戸初期の慶長末年、現在地周辺に初代徳川家康船橋御殿を建て、二代秀忠、三代家光が度々宿泊休憩をした。四代家綱により廃され、跡地は富氏に与えられた。三代家光の正保年間に、その一角に九日市村の飢饉に備え穀物を蓄えておく御蔵が建られ、当時、郷御蔵と呼んだ。御蔵のお陰で当地では延宝、享保天明の飢饉にも餓死した者はいなかった。寛政三年御蔵は出水の為流失、御蔵への感謝をこめ地元民が浄財を募り稲荷祠の社殿を大きく建直し、四季折々の祭を行って来た。慶応四年船橋宿一帯は戊辰戦争の兵火のため大半が焼失させられた。その復旧工事中の翌明治二年土取り中御蔵稲荷東北、郷御蔵跡地あたりから、渡来銭の詰まった大瓶三口が出土した。瓶は高さ四尺(一、二メートル)中国銭貨の洪武通宝、永楽通宝等弐百五十貫余(約九四〇キロ)も入っていた。地元では馬六頭で葛飾県庁に届けたが、一部恩恵に浴した者もあったという。その後明治二十一年に、経緯を刻んだ「銭瓶遺跡之碑」を建立したが、昭和中期頃失われた。昭和初期文人太宰治氏は鄙びた御蔵稲荷を好み、その作品にも書き残し、いくつかの口絵写真でも、御蔵稲地を背景に使っている。昭和三十年代に急激な都市化により、船橋地名の起りであり、山、里、町、浜の文物交流の動線であった海老川が毎年の様に溢れ、氾濫がくりかえされた。昭和三十六年浸水家屋敷二三八戸であったものが昭和六十一年には二、四二六戸と増大、当町会の三分の二が泥水に浸り、物心両面での困苦は筆舌に盡しがたいものがあった。その都度町会集会所を兼ねていた御蔵稲荷社殿が、避難所、食事の炊き出し所として、被害町会民のために役立った。地元民相集い、災害対策協議会を結成、市に要望、大橋和夫市長*3の英断と、国、県関係機関の尽力により、六百三拾八億九阡万余の巨費を投じ海老川改修工事が、平成四年に完成、当地における、出水の憂いが解消した。治水百年と言われるが、十余年の月日をもっての完工は、見事であり感謝の外言葉もない。いま町会が、平和で明るい生活を営めるのも心ある先人と、歴代町会長初代高村信三、二代新井善二郎、三代森内繁、四代栗原孝明、五代山崎正樹と役員が中心となり、一致団結「自主運営」と「互助」の心での努力が、今日の成果として結実した。この度社殿及び自治会館が、町会員の浄財と、市。県の補助金をもって新築落成、これを祝し、御蔵稲荷の由来と町会の成り立ちを含め、いく多の関係諸氏に深甚なる、感謝の意をもってこの碑を建立する。


平成七年七月九日

自治会館建設委員長
旧本町5丁目町会長 魚田薫 謹書



九日市村郷蔵跡


飢饉にそなえ穀物をたくわえたり、年貢米を一時的に保管したりするために、村々に建てられた倉庫を郷蔵あるいは郷御蔵とよんだ。九日市村の郷蔵は江戸時代寛永年間の終わり~正保の初めころ(1640年代)に立てたと伝えられ、150年ほど後の寛成3年(1791)に津波で失われた。以後は再建されなかったが、名主が貯えを預かり保管することになった。
宝永4年(1707)の船橋御殿地跡絵図には、敷地とともに「郷御蔵」と記されている。
九日市村は現在の本町・湊町・北本町の町域にあたる。


平成10年3月   船橋市教育委員会