「古典」(カルヴィーノ/須賀)

須賀敦子「塩一トンの読書」(in 『塩一トンの読書』*1、pp.11-18)


「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」とは、結婚して間もなく著者が姑に言われた言葉。


長いことつきあっている人でも、なにかの拍子に、あっと思うようなことがあって衝撃をうけるように、古典には、目に見えない無数の襞が隠されていて、読み返すたびに、それまで見えなかった襞がふいに見えてくることがある。しかも、一トンの塩とおなじで、その襞は、相手を理解したいと思いつづける人間にだけ、ほんの少しずつ、開かれる。イタリアの作家カルヴィーノは、こんなふうに書いている。
「古典とは、その本についてあまりいろいろ人から聞いたので、すっかり知っているつもりになっていながら、いざ自分で読んでみると、これこそは、あたらしい、予想を上まわる、かつてだれも書いたことのない作品と思える、そんあ書物のことだ」
「自分で読んでみる」という、私たちの側からの積極的な行為を、書物はだまって待っている。現代社会に暮らす私たちは、本についての情報に接する機会にはあきれるほどめぐまれていて、だれにも「あの本のことなら知っている」と思う本が何冊かあるだろう。ところが、ある本「についての」知識を、いつのまにか「じっさいに読んだ」経験とすりかえて、私たちは、その本を読むことよりも、「それについての知識」をてっとり早く入手することで、お茶を濁しすぎているのではないか。ときには、部分の抜粋だけを読んで、全体を読んだ気になってしまうこともあって、「本」は、ないがしろにされたままだ。相手を直接知らないことには、恋がはじまらないように、本はまず。そのもの自体を読まなければ、なにもはじまらない。(pp.13-14)
須賀さんは、引用したイタロ・カルヴィーノ*2の言葉の具体的な出典を記していないが、多分須賀さんが訳されている『なぜ古典を読むのか』だろうか。
また曰く、

さらに、こんなこともいえるかもしれない。私たちは、詩や小説の「すじ」だけを知ろうとして、それが「どんなふうに」書かれているかを自分で把握する手間をはぶくことが多すぎないか。たとえば漱石の『吾輩は猫である』を、すじがきだけで語ってしまったら、作者がじっさいに力を入れたところを、きれいに無視するのだから、ずいぶんと貧弱な愉しみしか味わえないだろう。おなじことはどの古典作品についてもいえる。読書の愉しみとは、ほかでもない、この「どのように」を味わうことにあるのだから。(p.14)
吾輩は猫である (新潮文庫)

吾輩は猫である (新潮文庫)