「ぐずる」権利

哲学の使い方 (岩波新書)

哲学の使い方 (岩波新書)

鷲田清一*1『哲学の使い方』からメモ。


(前略)「じゃあ、どうしたらいいんですか?」とすぐに解答を求める気性こそが、問題なのである。こうした気性は、近代人に特有の「気の短さ」(エリ・ザレツキー)として特徴づけられることがある。ぐずぐずしていて煮え切らないことをすぐに「主体性」の欠如と考える気性である。細部のニュアンス、込み入ったコンテクストを一つひとつ考慮に入れながら、それについての異なる意見も聞き、そしてそれらをじっくり摺りあわせてゆくなかで、はじめはおぼろげに、そしてやがてくっきりと論理の立体的な光景が見えてくる。そういうところまで待てないのである。わかりやすい論理を偽装する”物語”は、事態がうまくつかめないでいるそのもやもや、いらいらに切りをつけてくるからだ。
ここで忌避されているのは、あれこれとぐずぐず思い迷う時間である。すぐに答えを出さずに、じぶんをニュートラルに漂わせていられる場所である。「ぐずぐず」とは、決断がつかず決着を引き延ばしているうちに、やがて「自然」に引っぱられ、流されてゆく、そんな予感に包まれた人のためらいや逡巡を表わす。身を引き裂かれる思いにさらされながら、情けないことにいつまでも決心がつかない。宙ぶらりんのまあmだから、当然、力が入らない。力が入らないまま、そのだれた姿をそのまま晒す。辛気くさいほどのろのろしているし、なにやらぶつぶつ言うばかりで、いつまでたっても言い分が聞こえない。そう、「ぐずついた天気」のようにいらいらさせる人。はきはきせず、切りがつかず、しまりもなく、ただただおなじところを堂々巡りするだけで、それでも焦りはしない。そういう輩にかぎって、聞き分けがなく、陰気にごねる。つまり、「ぐずる」。
けれども、「ぐずぐず」と思い悩むことは、わたしたちが手放してはならない権利の一つである。それは、問題を前にしてじぶんの意志を決める前に十分な時間的猶予を与えられる権利であるといってもよい。これが権利とみなされるべきであるのは、ひとがなにかある重要な問題について意見を、あるいは意思決定をもとめられながら、じぶんでもよく問題が摑めないときに、それについてもっと多くの情報を得るための時間、あるいは他人の助言や専門家のセカンド・オピニオンを十分に得るための時間、じぶんが言い淀んでいることや迷っていることを他の人によく聴いてもらえる時間、そしてそのなかでやがてある決定を下せるようになるまで、ああでもない、こうでもないと思い悩むそのプロセス――このプロセスはいつでも訂正可能なふうに開かれている――を認められねばならないからである。(pp.226-228)