桂米朝

最近、どうして落語家には「朝」がつく人が多いのだろうかという疑問が不図湧き起こるということがあったのだった。あの三遊亭円朝もそうだし、古今亭志ん朝、それから春風亭柳朝春風亭小朝、また春風亭勢朝。上方では桂米朝。何故「朝」なのか。
それで、『毎日』の記事;


訃報:桂米朝さん89歳=上方落語復興の立役者 人間国宝

毎日新聞 2015年03月19日 22時59分(最終更新 03月20日 08時53分)


 戦後の上方落語復興の立役者で、落語家として初めて文化勲章を受章した人間国宝桂米朝(かつら・べいちょう、本名・中川清=なかがわ・きよし)さんが19日午後7時41分、肺炎のため亡くなった。89歳だった。通夜は24日午後6時、合同葬は25日午前11時、大阪府吹田市桃山台5の3の10の公益社千里会館。葬儀委員長は米朝事務所の田中秀武会長。喪主は長男で落語家の桂米団治(中川明=あきら)さん。

 1925年、中国・大連生まれ。現大東文化大在学中に落語評論家の故正岡容(いるる)氏に入門した。だが、演じ手が少なくなり、存亡の機にあった上方落語界の現状を見て、評論家としての道には進まず、自ら演じ手になろうと決意。47年、四代目桂米団治に入門し、「四天王」と呼ばれた六代目笑福亭松鶴さん、五代目桂文枝さん(いずれも故人)、三代目桂春団治さんと共に上方落語界を復興した。

 古典を現代にマッチさせるため、細部に工夫を凝らした“米朝落語”は「わかりやすい」と定評があり、幅広い層の人気を集めた。一代で大きくした米朝の名で生涯を通した。

 弟子の育成にも熱心で、月亭可朝さん、故桂枝雀さん、桂ざこばさん、故桂吉朝さんら多くの人気落語家を育てた。長男明さんも落語家として活躍し、2008年10月には小米朝改め、五代目米団治を襲名した。

 落語研究の分野でも、埋もれていたネタの発掘、再演や文献研究などに功績を残した。著書に「落語と私」「上方落語ノート」「米朝ばなし・上方落語地図」「米朝落語全集」(全7巻)など。能、狂言文楽、歌舞伎など広く上方の芸能文化への造詣も深かった。

 関係者によると、米朝さんは今年1月下旬、一時体調が悪化したが、その後は回復し、この日も夕方まで入院先の病室でテレビを見るなどして過ごしていたが、容体が急変したという。

 紫綬褒章芸術選奨文部大臣賞などを受章(賞)。96年に、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、02年には文化功労者。09年、落語界では初の文化勲章を受章した。
http://mainichi.jp/select/news/20150320k0000m040144000c.html

桂米朝を知ったのは1970年代の前半で、関西テレビ制作の『ハイ!土曜日です』*1というワイドショー番組だったと思う。上に引用した記事には2007年の写真が添付されているのだが、『ハイ!土曜日です』の頃と雰囲気が全然変わっていないのだった。その当時は、40代後半から50代前半くらいの筈。
正岡容*2門下ということだと、小沢昭一*3と同門じゃないかと思ったけど、このことは『毎日』の別の記事で言及されていた。

桂米朝さん死去:ネタ数130は当代一

毎日新聞 2015年03月20日 00時24分(最終更新 03月20日 01時07分)



19日に89歳で死去した落語界の重鎮、桂米朝さんは、戦後間もない時期に「滅亡間違いなし」と言われた上方落語を今日の隆盛に導いた人だった。芸人性と知性を兼ね備え、約130に上るネタ数は当代一とも言われた。現在、上方落語で演じられている作品には、米朝さんが先輩から口伝を受けたり、文献を調べたりして復活させた噺(はなし)も多い。

 長年の努力で培った高度な技術を持ちながら、常に観客への心遣いを忘れなかった。その落語は何よりも分かりやすく、多くの有望な若手を一門に引きつけた。ホールでの落語会を定着させ、全国を回って上方落語を全国区に押し上げた。

 現在、上方落語で演じられる作品には、米朝さんが先輩から口伝を受けたり、文献を調べたりして復活させたものや、事実上創作した噺も多い。1時間を超える名作「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」も、場面場面がバラバラに演じられていたものを米朝さんがまとめ上げた。また、夢をめぐってひと騒動起きる噺「天狗(てんぐ)裁き」も、明治期に上方から東京に渡って古今亭志ん生さんらが演じた噺を基に、米朝さんが復活させた。

 「落語とは、おしゃべりによって、お客さんを“違う世界”へご案内する芸であって、メーキャップも、大道具も、小道具も、衣装も、全部、お客の想像力にたよって、頭のなかに聴き手が作り出してもらう、ドラマである」。米朝さんは、2004〜05年に刊行された「桂米朝集成」(岩波書店)で落語への思いをこう吐露した。

 同じ正岡容(いるる)門下の小沢昭一さん、永六輔さんと親交を深め、故立川談志さんとは生涯の盟友だった。かつては「ハイ!土曜日です」(関西テレビ)などテレビワイドショーの司会や、ラジオのディスクジョッキーで活躍。晩年は後進の活躍が何よりの喜びだった。11年7月に現六代目桂文枝さんの襲名が決まった時は「上方の大きな名前が継承されるのは誠に喜ばしいかぎりです」、12年4月の二代目桂南天さんの襲名では「この名前を復活させてくれてありがたいこと」と語った。

 13年8月には肺炎で入院し、その後も入退院を繰り返した。14年新春の一門会では楽屋までは姿を見せたが、舞台に立つことはなかった。昨年6月の妻絹子さんの葬儀には参列した。【最上聡】


 ◇稽古をつけていただいた
http://mainichi.jp/select/news/20150320k0000m040162000c.html

 落語家、笑福亭仁鶴さんの話 噺(はなし)のネタをいくつか教えていただいて、稽古(けいこ)をつけていただいて、落語のことをいろいろ教えていただいた師匠です。誠に残念です。ご冥福をお祈りします。
 ◇テレビ出演に道を開いた

 落語家の笑福亭鶴瓶さんの話 突然のことで言葉もない。うちの師匠(六代目笑福亭松鶴)と戦後に衰退した上方落語を立て直された方。それを引き継ぐのは私たちの世代の役目です。直接習ったことはないが、入院先で松鶴師匠の昔話をうかがったことも懐かしい。私たちがテレビで活躍させてもらえてきたのも、米朝師匠が率先してテレビに出演されて、道を開いてきたから。
 ◇落語を広めたい一心

 上方落語が低迷していた昭和30年代にラジオで米朝さんの落語を紹介して以来、親交のあったプロデューサーの沢田隆治さん(82)の話 米朝さんがいなかったら、上方落語がここまで復活することはなかった。映画やテレビのコメディー番組などにも出たのも、落語を広めたい一心だった。好奇心旺盛で偉ぶることがなく、誰とでもよく話をする人だった。ゆっくり休んでほしい。
 ◇上方落語の再興に貢献

 約250人の落語家が活動する上方落語には、大きく分けて六つの一門がある。うち桂米朝一門の落語家は約70人。寄席にテレビにと活躍する桂ざこばさん、桂南光さんらを筆頭に人気者がそろう。米朝さんの直弟子は現在16人だが、弟子が弟子を取って一門が広がっていった。2010年春には東西落語界で初めてやしゃご弟子(月亭天使さん)が誕生して話題となった。

 戦後間もない頃の上方の落語家は10人に満たなかったと言われ、1957年の上方落語協会の発足時でもメンバーは18人だった。米朝さんら「四天王」は「後継者を増やす」という最も分かりやすい形でも、上方落語の再興に貢献した。【最上聡】
http://mainichi.jp/select/news/20150320k0000m040162000c2.html

昭和になってからの「上方落語」の衰退は聞いていたけれど、ここまで凄かったということは知らなかった。まあ、「上方落語の再興」しか知らないのだが。