「探すのをやめた時」

「53歳独身だけどやる事なくて辛い」http://anond.hatelabo.jp/20150204215709 *1


53歳って、俺とほぼ同世代じゃないか。
「独身」かどうかは関係ないよ。このエントリーに対して、提案されているアドヴァイスの殆どは無効だろう。つける薬がない。「会社ではそこそこのポジションにいて、それなりに給料を貰っている」というのが問題かも知れない。〈53歳フリーター〉とか〈53歳自宅警備員〉が聞いたら、贅沢者! と一蹴するかも知れない。麺麭がなければケーキを食べればいいじゃんという感じ? 最も役立ちそうなアドヴァイスは「ブラック企業*2への転職。そうすれば、「本当にやる事がなくて暇だ」なんて呟いている暇は(精神的にも物理的にも)なくなる。ポジティヴな現実逃避?
でも、それはいくら何でも武断的・外科的すぎる解決法といえるだろう。ところで、趣味を見つけるのを趣味にして、生き甲斐を見つけるのを生き甲斐とすれば、取り敢えずの空虚を填めることはできる。でも、それは世間で流行る婚活だの妊活だのと同様に或る種のアディクション状態に自ら入り込むということなので、健全なことだとはとてもいえない。またそもそも、見つければ見つかるという発想が問題なのだということも可能だ。それに関しては、この増田は存在的には(onticly)覚っているのではないかと思う。曰く、「趣味を持てなんて言われても正直めんどくさいしこの歳から何をすればいいんだよって思う」。その存在的な準位における覚りを如何にして存在論的な準位に引き上げるのか。そのひとつの途は、発見は遭遇(encounter)であるということ、その本源的な受動性を肯定することだろう。井上陽水は歌っている、「カバンの中もつくえの中も/探したけれど見つからないのに/まだまだ探すつもりですか」。また、「探すのをやめた時/見つかる事もよくある話で」と(「夢の中へ」)。多分、この人にとって、村上春樹謂うところの「小確幸*3が隠蔽されているのだろう。「探すのをやめた時」に先ず「見つかる」のはこの「小確幸」なのだろうと思う。

ラインダンス (新潮文庫)

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俺がこういうことを書き綴っている間に、この増田、勤め先の、去年高校を卒業したばっかりという女事務員から、もう何か月も生理が来ないのとか言われて、憧れの(?)既婚者&子持ちになってしまうということもあり得ないことではない。