将門首塚

『朝日』の記事;


たたりを意識? 大手町再開発、「将門の首塚」は計画外

上栗崇

2014年12月11日20時05分


 三井不動産などは11日、東京・大手町の三井物産本社ビル、旧プロミス本社ビルなど3棟を再開発し、超高層ビル2棟を建てる計画を発表した。敷地の一角にある「将門の首塚」は計画に含まれず、周囲は緑地にするという。「撤去しようとしたGHQ(連合国軍総司令部)の重機が横転した」など、たたりがあるという言い伝えがある。

 首塚は東京都指定の文化財で、敷地は都の所有。平安時代の武将、平将門(まさかど)の飛んできた首をまつったとされる。道路に囲まれた四角形の開発予定地の中で、首塚の一角だけが切り取られたように抜け落ちている。三井不動産広報は「神聖で大切な場所と認識している」と話している。

 計画では、2万900平方メートルの敷地に41階建て約200メートルと30階建て約160メートルのビルをつくり、オフィスやホテル、コンサートもできる多目的ホールが入る。投資額は約1700億円。(上栗崇)
http://www.asahi.com/articles/ASGDC5S17GDCULFA020.html

どうせだったら、「首塚」の敷地をアジールにしてしまえばいいのにね。警察に追われていても、ここに逃げ込んじゃえば逮捕されないとか。
首塚」の歴史について、取り敢えずWikipediaからコピペ;

この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗(じしゅう)芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。

首塚そのものは関東大震災によって損壊した。その後周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなり(後述)、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。昭和2年(1926年)に将門鎮魂碑が建立され、神田明神宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%96%80%E3%81%AE%E9%A6%96%E5%A1%9A

See also
haru-tomo*1「大手町再開発でも避けられる…「将門の首塚」のたたりが怖い」http://matome.naver.jp/odai/2141836355280691001


また、徳川家康による平将門*2のオカルト的利用については、加門七海『大江戸魔方陣』をマークしておく*3

ところで、千代田区観光協会によると、「首塚」の地は「江戸時代寛文年間、酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、山本周五郎歴史小説樅の木は残った」の原田甲斐の刃傷事件の舞台となったところ」である*4。だとしたら、将門の怨霊に原田甲斐*5の怨霊が加わって、この地の呪力はさらに高められていることになる。
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樅ノ木は残った(下) (新潮文庫)

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なお、千葉県の話ではあるが、北総鉄道のPR誌『ほくそう』94号に「「将門伝説」が残る大町駅周辺をたずねて」という記事が載っている*6