新聞を読むということ

永江一石*1「若者は本当にPCから遠ざかっているのかのデータを裏取りして驚いたこと」http://blogos.com/article/96779/


新聞(newspaper)を読むというのはこういうことなのだということ。
2010年のNHKの調査を参照しつつ、


ネットの一般への本格的な普及は1997〜8年頃だと思うが、それ以前の95年には、日曜日には10代の18%、20代の30%が新聞を読んでいた。ネットの普及前には20代の1/3が新聞を読んでいたのである。それが2010年には同じく4%と8%まで激減している。それから4年も経過したわけで、この調子で減り続けていたのなら10〜20代のほとんどはいまは新聞を読んでいない。

ここで新聞、PC、スマホの情報の取得についての物理的な違いを考えてみよう。

新聞は「興味のある記事」を選んで読む場合もあるが、多くは「とりあえず広げてみて全部に目を通す」メディアである。ネットのように自分の興味のある内容を掘り下げて調べることはできないが、新宿のヤクザの喧嘩から、ニューヨーク市場の変動まで幅広い分野で情報を得ることができる。つまり社会常識的な知識が広く浅く得られる。

これに対してPCでのネットサーフでは自分の興味のある情報を掘り下げて調べられる他、ニュースサイトなどでは大きな画面で最新のニュースを確認できる。これは画面の大きさにもよるが、新聞まではいかなくても視界には自分が調べたいと思っていなかったものも飛び込んでくることもある。
しかしスマートフォンになると、「自分の興味の無い」情報を「意図せず」取得することはだいぶん難しくなる。画面の小ささもあるし、アプリを主体的に使うわけで検索行動が減ることは明確である。

最後の「アプリを主体的に使うわけで」は〈アプリを主に使うわけで〉と書くべきなのだろう。まあ哲学用語としての〈主体性〉*2とも北朝鮮とも関係ない。さて、「新聞」が提供する「新宿のヤクザの喧嘩から、ニューヨーク市場の変動まで」の情報だが、通常「新聞」においてはこれらの情報がローカル―ナショナル―インターナショナルという仕方で階層的に分類されている。私たちは様々な人がおり様々な事件が起こるこの国(例えば日本)という空間を、また新聞を読むという仕方でこの国の様々な人や様々な事件に関心を寄せる他の同胞を、国民(ネーション)として想像する。また、この国という空間が、ローカルとインターナショナル(世界)に挟まれて存立しているということも。私たちがローカル―ナショナル―インターナショナルという「新聞」の階層的構成を自明なものとして新聞を読んでいる限り、「新聞」が私たちが国民という仕方で存在する上で(決定的ではないにしても)重要な役割を担っていることは、アンダーソンの『想像の共同体』*3を捲るまでもなく明らかであろう。つまり、「新聞」、「新聞」を読むことの衰退は私たちが〈国(国民)〉を想像することを、かなり困難なものにするだろう。そのような状況において叫ばれるナショナリズムはどうしても具体的な参照点を欠いた空虚なものにならざるを得ないだろう。
想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険)

想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険)


それにたいして大学生くらいの年齢で情報源が「スマホのみ」になると、自分の興味の無いジャンルについてはまったく無知という傾向がますます強まる。そもそも興味が無いので本人達は「別にそれでもいい」と思うわけだが、社会としては無知な人間ばかりになると弱体化し、または知識レベルが高いクラスタとの二分化がさらに強まると思うんですよ。そんなわけで、自分は若年層が「スマホバイスのみでしか情報を取得しない」時代はヤバいと思います。
「無知な人間」が多くなるとはいっても、情報収集の方法としては効率的なわけだ。脇目もふらず目標まで一直線ということで。「ニューヨーク市場の変動」について調べようと思って新聞を捲り、偶々目についた「新宿のヤクザの喧嘩」の記事を読み耽っちゃうということはないわけだ。しかし、情報収集において排除した筈のノイズは別のところで回帰してくることになるのでは? 会話の成立が不可能ではないにしてもややこしくなるということで。会話というのは(主にトポスに関する)自明な共通認識という前提があって成立しているわけだ。例えば、狐、狸……。蕎麦の話という前提なら、範例的(パラディグマティック)な選択肢*4として許されるのは、天麩羅とか月見とかおかめとかだろう。動物学的なトポスだったら、狼、ハイエナなど(同じ犬科ということで)。トポスの共有ということが自明視できなければ、お気軽に(例えば)「マック」という言葉も「タイガース」という言葉も使えなくなる。使う度に、ハンバーガーなのかパソコンなのか、野球なのかGSなのかを説明しなければならないというのはかなり苛つくだろう。